2023年1月22日 主日礼拝
「内側を清くするものは、ただ一つ」 小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 23章25~39節

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 本日の箇所は、主イエスは外面を重んじて、内面を問うていない、律法学者とファリサイ派の人々の偽善について語られています。外面と内面について、教会の中でも問題となることがあります。ある人は、外面的なこだわりによって、教会を分裂にまで追いやることがあると言います。例えば、礼拝堂の花や飾り。それから、教会に十字架を掲げるかどうか。礼拝堂に花を飾らない教会も十字架を掲げない教会もあります。それは会議で決められたものが形として現れています。また私たちの生活そのものは、年度聖句であるヤコブの手紙を見てみても「行動を伴う信仰」として、外面に内面が現れてくるものであることを語っています。

 律法学者、ファリサイ派の人々に、内面と外面とが無関係になっていて、表向きには神を礼拝し、第一としながら、その心は人の目のために行っていることへ気づかせなければならないのです。あなたたちの姿はまるで「白く塗った墓」。 過越祭の時などに大勢の人々がエルサレムを訪問する時、誤って墓に触れて汚れることのないように、墓を白く塗りました。しかし、その「内側は死体の骨」に満ちている。それは、当時のユダヤ教の指導者の様であると主イエスは言います。

  「…預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。」。良いことのようにも思えます。しかし、ルカ福音書では、「自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。」とあり、預言者や正しい人を「自分の先祖が殺した」と言います。預言者たちの死は酷い苦しみの中にあったと伝えられています。人々が墓を建て、記念碑を飾りたてるのは、その償いのためであり、またその者たちを崇拝する儀式が行われることもあったと言います。 人々への悔い改めを幾度と語り聞かせ、十字架へと向かわれる歩みの中で、神の思いに反する信仰者の姿であることに気づいて、幸いなる者への命の歩みへと、招いておられるのです。 

 「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。」。これに対し主イエスは山上の説教で、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(5:11)。 罪により、神の前に顔を伏せた私たちが、そのままでは罪にほろびてしまう者でした。けれども、神は、私たちが罪を悔い改め、神の方へと向き直ることを求めて呼びかけてくださるお方です。 

「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前らの子を何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
 イザヤ書31章5節には「翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる」とあります。めん鳥が幼い雛を大切にし、自分の翼の下に集めようとしてきたが、エルサレムよ、あなたは知らん顔をしてそれに答えようとはしなかった。そのことを主イエスは嘆かれたのです。 
 「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」。神を離れてしまった罪の行く末です。主イエスの厳しい災いのみ言葉が十字架を目の前にして語られます。 主イエスのこれらの厳しいお言葉の数々は、めん鳥が雛を何とかして、どうにかして、翼の下にだき抱えようとされる、愛から来る御言葉です。この愛ゆえの嘆きが、これらの厳しさの背後にはあるのです。私たちはこの愛の主イエスの前にひざまづいて、罪を告白し、赦しのもとに、新しい歩みへと向かわせられます。ぬぐっても、ぬぐってもきれいにならない私たちの内側を知っていても、何度でも羽の下に集めようとされ、守ろうとしてくださっている。私たちを汚れたままに包み込んでくださるのです。けれども、自分ではぬぐうことのできない罪を、包み込む愛によって、赦し清めてくださるのです。