2023年1月8日主日礼拝
「天の国の法」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 23章1~12節

【説教録画は <Youtube>】

 主イエスがエルサレムに入城され、十字架へと向かう道を歩まれる中で本日の箇所は語られています。「『律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らがいうことは、すべて行い、また守りなさい。』」。律法学者やファリサイ派の人々の言うことを行い、守ることを勧めます。その理由は彼らが「モーセの座に着いている」からです。
 
 モーセは古代イスラエルの指導者で、シナイ山で神から二枚の石の板に刻まれた律法、十戒を与えられました。その座に着いているということは、律法の立場に立ち、律法を語り、尊重し、行い、守る者です。律法は神からの言葉であり、神の御意思です。主イエスも律法と神の言葉を尊重されています(5:17)。けれども同時にこうも言います。「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」。彼らは有言不実行だと言うのです。それは、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」という態度です。モーセの座に着いて語られる言葉は実行を求める言葉です。彼らはそれを語ることによって、実行を伴う重荷を人々に背負わせます。けれども、それを一緒に担うことも、彼らを励ましその重荷を少しでも軽くするために、指一本貸そうともしないのです。また、彼らの行いは神のためではなく「すべて人に見せるため」になっているのです。

 「聖句の入った小箱を大きくしたり」。申命記の6章4節以下の言葉の「自分の手に結び、覚えとして額に付ける」ものが聖句の入った小箱です。その中には細長い羊皮紙の小片があり、律法が記されています。また「衣服の房を長くしたりする」は、民数記15章38節以下により、ユダヤ人はこれに従って、房のついたショールを身に着けて祈ります。聖句の入った小箱と服の房は、主の御心、御言葉を忘れないためのものです。けれども、心を神に向けるはずのものが、神ではなく、人に向けられてしまうものになっているのです。

 「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。…あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」。律法学者、ファリサイ派の人々にとって「ラビ」、「先生」と呼ばれることは光栄で、わたしにとって偉大な方、大きな方、先生、の意を持ち合わせた言葉です。律法学者やファリサイ派は日々、学び、人々を指導していましたから、人々から一目おかれることを喜び、ラビ、先生と呼ばれたいと望んだのです。そのような他の人々よりも上に行こうとする思いに対して、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と主は言われます。律法学者、ファリサイ派は積み重ねた知識の高見から、人を見ているのです。低い者は軽んじられ、重荷が課せられます。彼らは重荷に対して何一つ手助けしょうとせず、人からどのように思われるのかということだけを気にして、神のことを問題にしていませんでした。低い者が見下される。切り捨てられる。そのような弱肉強食のような考えでは、低いものが軽んじられ、排除され、いずれ上に居た者が切り捨て続けて、最後には人は皆いなくなってしまいます。主イエスの持っておられる視点は、神の律法であり、天の国の法の視点です。主イエスは僕として、仕える者として立ちます。神の子が人となり、最も貧しくなられました。それが主イエスの視点であり、天の国の法を持つ者が立つ場所なのです。

  当時、律法はファリサイ派の理解では、三百以上あると言われています。そのような戒めでがんじがらめになっていた人々は、それを実行できない責めに苦しめられました。上からの視点というのは、ただ責め、裁くことだけしかできません。重荷を担い、背負いきれない重荷を負わされた者を、僕となって下からその重荷を背負って下さった方が主イエスです。私たちも、礼拝を第一とする。その思いを持っています。けれども、礼拝に行かれない時があるでしょう。長く教会に来ていない方に電話をすると、「すみません」と謝られます。私たちが見るべきものは、神の目に私たちはどのように映っているのかということ。また、神がどのような関係を求めておられるのか。そのことに私たちは心向けるべきなのです。戒めが守れない時、それを守ることのできない悔やむ思いを神はご存じです。神の思いを知りながらも、実行できなかった日々があります。主イエスはそのことを責め立てるお方ではありません。「御言葉を行う人になりなさい」。これは今年度の教会聖句です。神の言葉に目を背けず、見つめ続けること。そのことを心に刻み歩みたいと思います。十字架において、重荷を全て背負ってくださった。主イエスご自身が十字架にかけられる、僕となられた、愛の姿を示してくださった方です。主イエスの語られる御言葉は、裁きの言葉ではなく、愛の言葉であり、赦しの言葉、福音そのものなのです。