2023年1月15日主日礼拝
「誓いのある生活」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 23章13~24節

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 本日の聖書は、主イエスが伝道の生活を始めて最初に教えられた「山上の説教」(5-7章)と対応するように書かれています。山上の説教は、「幸い」の教えがありました。「幸いである。」という主イエスの教えに対応するように、本日の御言葉は「不幸だ」と繰り返し語ります。けれどもこれらの強い口調は、人の罪を暴き出して見世物にするためではありません。神に対する罪に無自覚である私たち人の心を見つめさせ、私たちに、神の祝福の道を選ぶように勧められているのです。

  「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。…生と死、祝福と呪いをあなたたちの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。…」(申命記30:15節-)。語られているのは「幸いである」という祝福です。命であり、神の御声を聞くこと。それに対して、「不幸」は、祝福の反対の災い、呪い、死です。神の祝福の内にある姿とは反対にある、不幸です。山上の説教の幸いと、反対の姿です。神と敵対してしまう人の姿を、幸いとかけ離れた、不幸だと語るのです。 

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」。 聖書は、はっきりとものを言います。「あなたたちは天の国に入らない」。「入れない」と。それは、神の支配の下に生きていないからです。神の支配の外を、知らず知らずに望んでいるからです。  律法学者たちは、自分たちだけでなく、人の救いを妨害しているのです。彼らは当時のユダヤ教の指導者です。その指導者たちの教えることは人々から信頼されていましたが、彼らの教えは、天の国に入るのを妨げてしまうのです。それはまるで「ものの見えない案内人」。身体的な問題ではなく、信仰の目が閉じられていて、人々のガイドするはずのユダヤ教指導者の存在は、盲目であり、人々を誤って導いている。だから主イエスは、彼らが自分自身に対しても、他の人々に対しても、天の国の扉を目の前にしながら、閉じてしまっていることをはっきりと知らせているのです。

 「あなたたちは『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う」。何に対して誓約をするのかによって、誓約の拘束力が変わると考えていました。主の御名によって誓うことは明らかに破ってはならない誓約でした。けれども、それ以外の誓約は破っても良い。誓約の際に何に対して誓うのかによって、誓約の重さが異なり、神の御名からの距離によって測られていました。主の御名よりも供え物が軽く、供え物よりも祭壇が軽く、神から隔たるに従って誓いの力は弱くなると考えたのです。しかし、誓約には規約がありました。民数記30章には誓約、誓願の規約があります。 たとえば、「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない」。そこで、彼らは出来ない誓いは始めからしないようにしてゆきました。 「また『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。」。 守れそうもない誓約は祭壇にかけて誓えば、万が一守れなくても破棄できると考えました。けれども、守らなくてもよい誓いは有りません。「誓い」は決意です。 結婚の誓約が好き嫌いの感情で誓約するのではなく、決意に立って誓約するように、仕事においても、大統領の誓約も、気分・感情の起伏によって左右されるのではなく、決意に従って果たし、決意を持って誓うのです。

 「不幸だ」という言葉の背後には、苦しみと悲しむ者の呻きがあります。道を誤る私たちを見て「どうしてそちらへ行ってしまうのか」と呻く主イエスの思いと悲しみがあるのです。  ルイスカッセルのクリスマス物語を思い起こします。吹雪に混乱する鳥の群れを、安全なところへと導きたい思いで、「同じ鳥になれたら救えるのに…」と悔やみ、嘆く時、主イエスが人となられたことの意味を知るのです。主イエスは、自分の心、はらわたが痛む程の思いを持って私たちを見つめておられる。私たちはすでに神の前に罪のある者です。戒めによって、自分が救われるべき、主イエスの助けなしには、神の前にいられない者なのだということを知るのです。 私たちはこの主イエスの眼差しのもとを生きています。そして、主イエスの眼差しの中で生きる時に、人の目、人の評価のために生きることから解放されます。 

 神は私たちのことをどのような目で見ておられるのか。それが、主イエス・キリストにおいて示されています。主イエスの、深い嘆きと悲しみと憐れみのまなざし、私たちのために十字架の死を引き受けて下さったそのまなざしこそ、神が私たちを見つめておられる目なのです。 神の恵みの支配が天の国です。私たちは、主イエスによって示された、神のまなざしの中を、天の国を生きるのです。