2023年1月1日主日礼拝
「安らかさの始まり」小松 美樹 牧師
ルカによる福音書 2章21~35節

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 救い主、キリスト誕生以後、2023年の時を刻み、最初の礼拝を守る幸いに感謝します。 
 神殿に多くの人々が訪れている場面が思い浮かぶ聖書を読みました。幼子を連れた夫婦なども何人もいたことでしょう。レビ記12章の出産についての規定に従って、マリアとヨセフは、生まれてから八日目に主イエスに割礼を施し、産後の母親清めの40日間を終えて、神殿へと向かいました。そこで「シメオン」に出会います。この人は、「聖霊が彼にとどまっていた」とあり、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」。シメオンは、エルサレム神殿に来た赤ちゃんの主イエスを見て、腕に抱いて、神を褒め称えました。シメオンは長く神殿で仕え、死を意識した歳であるという見方があります。相当の年齢だったのだろうと想像され、絵画では高齢の様子で描かれています。本日の聖書に続く36節に出てくる預言者アンナは84歳以上であることが記されています。しかし、シメオンの年齢の記載はありません。高齢に思われるのは、彼の言葉が「もう思い残すことはない、これで安心して死んでいける」という意味に取ることができることにもあります。けれども、決してそうではなく、年の若い者、人生の盛りの時を過ごしている者であっても語ることもありますし、またこのように語ることができる所にこそ、幸せで、充実した人生がある、と思う言葉でもあります。私たちは自分が何時死ぬのかわかりません。「これで安心して死んでいける」という言葉は、年を取ってから語れるようになればよいというものではありません。明日、突然死を迎えるかもしれない、そうなった時に「安らかにこの世を去ることができる」と語れるのか、私たちに問われていることなのです。

 しかしこの言葉が大事なのは、人間いつ死ぬか分からないのだから、というだけのことではなく、どのような思いを抱いて生きているかということを語っています。 シメオンは律法を守る「正しい人」であると言われます。また、「イスラエルの慰められるのを待ち望み」生きていました。正しく信仰の熱いシメオンはがエルサレム神殿にいても心は休まらなかったのではないかと思います。神殿の境内はお金儲けの場所になっていましたし、捧げものに傷がついていれば、境内で買い直しをさせたり。それでもシメオンは神を信じて待っていました。けれども、本当にメシアは来るのだろうかと思うこともあったかもしれません。私たちにとって、待つのは苦手なことではないかと思います。神を信じて待つ先に、神の出来事が起こります。シメオンは、神を信じて待ち続け、救い主、イエス・キリストと出合いました。 「安らかに」とは「平和のうちに」ということです。ここで言う「平和」は、人によって作り出すものではありません。主イエスによる平和です。主が十字架で死んでくださることによって神さまと人との関係が回復される。そのことによって神と人との間に実現する平和です。シメオンは神の救いである、主イエスの十字架によって打ち立てられる平和のうちに去ることができると、称えました。

  私たちの地上の歩みには、多くの苦しみがあり悲しみがあります。受け入れることなどできないと思える不条理な出来事にも幾度となく直面します。シメオンが生きた時代も決して平穏ではありません。ローマ帝国の支配の下にあったユダヤで彼は困難な時代を生きたに違いありません。しかしそうであるにもかかわらず、神の救いを見て彼は平和のうちに生きる者となりました。

  アドヴェントによってもたらされた神の出来事は、この世界へと向かってくる、主イエスただお一人が背負い、この地へと来られました。誕生の喜びを得た者たち、羊飼いは元の仕事へ戻り、東方の学者たちは、違う道へと進みつつも自分たちの国へと帰って行く。シメオンは御子の到来により、平安を頂いた。私たちの生きる世界がその時形を変えて、支配を抑えて変えられたのではありません。けれども、神の平和の中を生きられる者となりました。ただお一人、御子イエスは、冒険の道をたどりゆきます。十字架へと進まれるのです。私たちと終わりの時まで共にいてくださるための冒険であり、今も私たちが神と共にいるために執り成し続けていている。私たちはその主の来臨を待つ者です。ただ受け身の待ちの姿勢ではない歩みに招かれていることを今新たにしなければなりません。御国のために生きる人生です。すべては神が成してくれるから、待っている。全てを受け身で、まるで映画が始まるのをただ座って待つように、しているのではありません。そうではなく、大切なお客さんが家に来るように、待つのだとある説教者は言います。それには心待ちにしていること。また、気を付けていること、整えておくべきことがいくつもあります。

 シメオンの思い描いていた、将来、小さな救いは打ち砕かれました。イスラエルの慰めを待ち望んでいたが、思っていたのとは違ったことでしょう。それは「異邦人を照らす啓示の光」だったのです。主イエスを前にした人々は、心の罪を照らし出されます。私たちをいつも正しい道へとつれ戻してくださる主の言葉を聞き留め、行う者として、心待ちにしたいと思います。