2022年12月25日クリスマス礼拝
「新しい王を探しに」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 2章1~12節

【説教録画は <Youtube>】

 星に導かれて、「占星術の学者たち」がキリストを訪ねてやってきた物語を読みました。はるばる東方から、救い主の誕生を見て拝むために旅をしてきました。どこから来たのかということは、はっきり記されてはいません。ペルシアか、アラビアか、インドのあたりからという見方もありますが、そのことはわかりません。それがどこからであるとか、キリストが生まれてから何日くらいで辿りついたのか。そのようなことを聖書は記していません。「いつ」ということではなく「出来事」を大切にしているからです。

  彼らの旅は、私たちの人生の歩みと似ていると言われます。神は星を動かし、彼らを導きました。どこへ向かうのかもはっきり記されないまま旅が始まりました。私たちの人生の歩みも、どこへ向かうのかわからない。見通しもなかなかつかない。何が先に待っていて、人生の目的がわからない。けれども、信じて歩み出すしかないのです。誰もが自分の運命・将来が定まっておらず、自分の人生がどこへ向かうのかわからない中にあります。しかし、「占星術」は、星が定められた通りの動きをしているのと同様に、あなたの将来も定まっているのだと教えてくれます。東方の学者というのは、自分の運命に従って生きているのだということを信じ、研究している人たちです。けれども、この時、星を動かす力が働き、占星術の常識は覆されました。学者たちは星が導き知らせるのではなく、星を動かす方がいることを知るのです。動かないはずの星を動かす方がいる。その発見が彼らを旅立たせたのです。彼らは今まで通りの生き方はできなくなったのです。星ではなく、星をも動かす方を信頼して、知らない将来へと歩き出す。彼らはそのようにして、新しい生き方を始めました。

  その対比として描かれているのが「ヘロデ」の姿です。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」がいる。自分の地位が危ぶまれるのです。今まで築き上げてきたものが奪われるという不安を抱いたのです。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々皆、同様であった」。ヘロデは、これまでの生き方を守りたかった。だから、不安になったのです。そしてエルサレムの人々も皆、同様であったと言います。けれども、その姿、不安を抱く姿は私たちそのものです。 人は皆自分の中に「小さな王様」がいると言います。自分の願いが叶うように。また自分の譲れないものを持っている。だから、この席を譲ることはできない。そういう小さな王様がいるのです。それを揺るがされることで不安になるのです。手放せない。譲れないものが揺らぐ時、不安になるのです。

  これらは生まれたばかりの小さな赤ん坊によって起きたのです。イエス・キリストがお生まれになり、世界はぐるりと変わったのです。高きにいる者が低くなり、低きにある者が高められるということが起きたのです。幼子にはその不思議な力があります。赤ちゃんの前では皆、膝をついて、屈んで身を低くしなければなりません。一人では生きることのできない弱さの中に、大人たちがそれまでの手を止め、姿勢を変えて、仕えなければ幼子を迎え入れることはできません。主イエスはそのような姿で、お生まれになりました。学者であっても、大企業の社長であっても、幼子の前では、その身分に関係なく、赤ん坊を受け入れ、抱えなければなりません。もちろん、受け入れられないこともあるでしょう。自分のペースを乱されたくない。仕事の手を止めたくない。それはクリスマスにお生まれになった主イエスを迎え入れる学者とヘロデの姿のようです。 

 東方の学者たちの捧げた贈り物は、仕事の道具であったとも考えられます。もう彼らは、これまでの生き方ではなく、新しい王を迎え入れ、仕事道具であり、人生であった宝を捧げたのです。 これまでの生き方から、新しい生き方へと歩み始めるのです。目に見える形として、私たちの宝を捧げるようにというのではありません。私たちのひれ伏し、宝を捧げる姿は、今の礼拝する姿として見ることができるでしょう。手を止め、心静かに自分の中の小さな王様ではなく、神の御声に従おうとする歩みです。イエス・キリストを信じ、洗礼を受けたとき、私たちは新しい命に生かされます。これから持たれます聖餐の食卓は主イエスを信じ、受け入れ、新しい命に生きる者たちの祝いの食卓です。クリスマスによってもたらされた主イエスの御降誕と、来られた主が再び来られるその時まで、思い起こし、御言葉によって新たにされ歩みましょう。