2022年12月18日主日礼拝
「飼い葉おけに眠る救い主」小松 美樹 牧師
ルカによる福音書 2章1~7節

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 ルカによる福音書 第2章1-7節 ルカによる福音書は、他の福音書と比べて、多くクリスマス物語が記されています。1章1-4節までは福音書の序文。その後、ルカのクリスマス物語は始まります。洗礼者ヨハネの誕生の予告と誕生、また主イエスの誕生の予告が語られています。また主イエスをお腹に宿したマリアが洗礼者ヨハネをお腹に宿していたエリサベトを訪れたことが書かれ、2週前に礼拝で聞きました、マニフィカートと呼ばれるマリアの賛歌や、ベネディクトゥスと呼ばれるザカリアの賛歌も歌われています。クリスマスの訪れを待つアドヴェントが華やかに、そして私たちの期待も高まる。そんな描き方で、主イエスの誕生の、もう一つの物語が展開されています。

  2章になって、主イエスの誕生が始まります。しかし、その語り口は、とても静かで、ひっそりとしています。主イエスの誕生は密やかに起こりました。イエス・キリストの誕生の出来事そのものに何の装飾もなく、ヨセフとマリアは一言も話すことなく沈黙しています。 クリスマスに演じられる、降誕劇のような宿屋とのやりとりもありません。ただ「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」とあるだけです。 
  ルカが記す、主イエスの誕生は、時代がはっきりと描かれます。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。」。ユリウス・カエサルの養子で、彼の後継者として内乱を勝ち抜きローマ帝国の初代皇帝となったのが皇帝アウグストゥス。広大なローマ帝国を強力な軍事力で統治し、豊富な財力で帝国内の公共を充実させました。「住民登録」の言葉は、口語訳では「人口調査」と訳されていました。その目的は徴兵と徴税であり、兵隊を集めることと税金を集めることにありました。皇帝アウグストゥスにより、徴兵、増税が行われ、ローマ帝国の黄金期を築きました。当時のローマ社会で「救い主」と呼ばれるほど。しかしアウグストゥス以後は衰退し、最終的には滅亡するのです。軍事力を強め、財政を豊かにすることによって一時的な平和を築き上げたけれども、それは表面的なものに過ぎませんでした。

  「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて」。こんな時代の中に、新しい時代が始まる、王の誕生が秘かにありました。「月が満ちて」は、子どもが生まれる時が来た意味の他に、聖霊に満たされることを意味します。使徒言行録やルカ福音書に使われる特徴的な言葉です。「マリアは月が満ちて」とは、聖霊に満たされて主イエス・キリストの誕生による新しい救いの時代が到来を告げるのです。 その新しい救いの時代の到来は、およそその出来事とはふさわしくないかのように思える場所で起こりました。「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。人が泊まるための場所には空きがなく、宿屋の外に、いつもは動物しかいない場所に、お生まれになった御子を寝かせるしかなかったのです。 神さまは地上に御子を遣わしてくださいました。このことこそクリスマスの出来事です。しかし、その御子は「飼い葉桶」にしか居場所はなかったのです。人々の拒絶した姿にも見えるでしょう。救い主であり、贖い主である主イエスが生まれるとき、この地上には居場所がなかったのです。皇帝アウグストゥスが広大な領土を支配していたのと対照的に、ただ「飼い葉桶」だけが、御子がお入りになれた場所でした。

  クリスマスを迎える時、私たちは主イエスの誕生を喜び祝います。しかし、このルカによる福音書は、主イエスの誕生が私たちに喜びを与えるだけではないことを告げています。私たちが御子をお迎えするところなど、自分の内に持っていないのです。御子が来てくださったのに、私たちは御子をお迎えする備えができていないのです。私たちは、自分たちのところに来てくださった御子を拒絶すらする者です。私たちの心は、いつも自分のやりたいこと、あるいは自分のやらなければならないことで一杯なのです。自分の思いや願いが大きく占めていて、そこに御子を迎え入れる場所はなくなっているのです。 私たちが御子を迎え入れなかったからこそ、主イエスは地上の歩みを「飼い葉桶」から始められ、十字架へと向かわれるのです。私たちは自分のことで必死になり、思いも、願いも、自分自身で握りしめて手放すことがどんなにできないものかと思いまうす。それでも主イエスは、御子を拒む私たちの傍らに来てくださいます。生まれたばかりの御子が、人が泊まる部屋に場所がなく、飼い葉桶に寝かされたように、私たちの内に御子を迎えられなかったとしても、御子は私たちの傍らに来てくださるのです。