2022年12月11日主日礼拝
「名前をつける喜び」石丸 泰信 先生
マタイによる福音書 1章18~25節

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 聖書はクリスマスまでの物語をヨセフの悩みから語り始めています。彼は「正しい人」といわれます。神の前に誠実に生きようとする人ということです。けれども悩みがないわけではありません。むしろ、正しくあろうと思うからこそ悩むことがあります。彼の悩みはマリアの事です。二人は婚約中でした。ユダヤの社会での結婚までの道のりは1年間の婚約期間をそれぞれの家で過ごすというものでした。そこに事件が起こったわけです。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。ヨセフは、これを知ってどう思ったでしょう。いずれにしても彼はマリアの言葉を信じることはできませんでした。
 
 当時、婚約中の男女が他の人と関係を持ったことが公になると手続きとして二つのことが考えられました。一つ目は「表ざたにする」こと。裁判に訴え出て離縁の手続きをします。ヨセフは彼女に裏切られたのかと同情され、マリアは、場合によっては石打の刑にされます。もう一つは「密かに離縁する」という方法。表ざたにせず、二人以上の証人があれば成立しました。一般に男性側に後ろめたいことがあると、この方法が執られていたようです。ヨセフは「マリアのことを表ざたにするのを望」みませんでした。理由を知らされない周りの人々は同情の目をマリアに向け、ヨセフを非難するでしょう。今まで築いてきた信頼も失うと思います。しかし、それを覚悟で「ひそかに縁を切ろうと決心した」わけです。

 けれども「このように考えていると」と続きます。「思い巡らしていると」と翻訳できる言葉です。決心はした。しかし、思いは巡ったわけです。これからどうなるのか。マリアを受け入れた方が良かったのか。「ひそかに縁を切ろう」と決めたヨセフは、誰にも話すことは出来ませんでした。たとえ多くの友人、家族に囲まれて居たとしても彼は孤独だったわけです。その夜、「主の天使が夢に現れて」言います。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」

 本当に天使は現れたのでしょうか。誰にも分かりません。ただ、ヨセフにとって主の天使が現れたとしか言いようのないことが起こったのです。彼はここで自分の正しさを越える言葉と出会うのです。天使のひと言目は「恐れるな」でした。ヨセフは恐れていたのです。「恐れ」。この言葉に彼の全部が詰まっていました。将来への恐れ、婚約者への怒りを持っている自分に出会ってしまった恐れ。これからを一人で背負わなければいけない決断への恐れ。その「恐れ」が主の天使に知られていて、正に言い当てられたのです。ヨセフは、このひと言で「恐れなくてよい」という意味がよく分かったと思います。「恐れるな」という言葉は「ヨセフ、あなたの恐れを知っている。あなたを見ていた」ということです。彼は自分の人生の舵を自分で切ろうとしていました。けれども、天使は言うわけです。このことはあなたの人生を用いる神の計画の中にある。だから、委ねて大丈夫。「妻マリアを迎え入れなさい」、と。彼は正しく生きようとしてきました。今や、自分の正しさを越える、信頼の生き方に身を任せようとしています。

 続けて天使は「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言います。「罪」が話題に出てきます。天使はヨセフの正しさ、孤独を知っていました。そして罪も知っていました。マリアの言葉を信じられない罪です。身を引く以外に迎え入れるという選択も彼は出来ました。けれども、彼は傷つきたくなかった。正しさの限界。愛の限界です。しかし、天使は言うわけです。この子があなたを救う、と。彼にとって、この子こそ、赦せない、愛せない存在でした。しかし、このイエスという子どもを通して素晴らしい体験をする。例えば、自分は自分を愛せない、赦せないかもしれない。けれども、家族の方はイエスを通して、そんなあなたを愛し続ける、赦し続ける、信じ続ける。そういう体験をするということです。

 「そして、その子をイエスと名付けた」と言います。イエスとは「主はわたしの救い」という意味の名です。日常生活の中で何度もヨセフは名前を呼びます。「イエス、おはよう」、「イエス、行ってくるよ」。毎日の生活の中で何度も「主はわたしの救い」と口にする訳です。名前をつけることは人間が神に造られたとき任された務めでした(創2:18)。人は新たに何かを造りだすことはしません。新しいものを見つけ、名前をつけるのです。

 何かの出来事に名前をつけることはあると思います。酷いことを言われた。これは憎しみ。良いことがあった。これは喜び、と。わたしたちは感情任せに名前をつけてしまいます。しかし、ヨセフは喜びが始まりそうな所に「救い」と名付けたわけではありません。救いの無い出来事の中に天使が命じるからこそ「イエス」と名付けたのです。彼は、その意味を思い巡らしたでしょう。わたしたちも同じです。どうしようもない出来事の中に、それでも新しい名前をつけることができます。嫌なことがあった。だから悲しみと名付けるのは簡単です。けれども、思い巡らしてみて、その悲しみを支えてくれた人があったことに心を留められれば、感謝や静かな喜び、など別の名前が付くかも知れません。ある人は言います。「多くに感謝できる人に、この世界は別の顔を見せます」と。現実は同じです。けれども、新しく名前をつける人には世界は違って見えてきます。

 アドヴェントの典礼色は紫。悔い改めの期節でもあります。悔い改めは反省ではありません。向きを変えるということです。向きを変えて振り返る。自分の歩いてきた道。それを振り返って名前をつけ直しながらクリスマスを迎えたいと思います。