12月4日主日礼拝
「神に目を留められる喜び」小松美樹 牧師 ルカによる福音書 1章46~56節

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 クリスマス物語に二人の女性、マリアとエリザベトが出てきます。二人は親戚関係で、祖母と孫ほど離れています。エリザベトは高齢のために、もう子どもが望めず、諦めざるを得なかった。マリアは結婚前で子どもなど生まれるはずもない。二人は全く違う状況で、子どもを望めないはずにも関わらず、子を宿したのです。 子どもが与えられる・与えられないということほど、自分の能力や努力が通用しない、及ばないものはありません。二人はその無力さの中にいます。当時は女性が注目されることなどない時代です。また、子が与えられないとなれば、差別され、軽んじられる。マリアの賛歌はその低い者が高められたと歌う、神の意思に転換する驚きと喜びの歌なのです。

 「マリアの賛歌」は「マニフィカート」として知られ親しまれてきました。マニフィカートとは、ラテン語訳で、賛歌冒頭にくる「あがめる」の言葉です。 この賛歌は、「わたしの」という言葉が繰り返されマリア自身の体験による賛美(46-50節)と、イスラエルの民に実現した主のみ業(51-)を歌います。マリアに起きた出来事が、イスラエル共同体へと移り、さらには全ての人にとって実現した主のみ業へとなるのです。 マリアはこれから起きるはずの出来事に対し、すでに実現したこととして(過去形で)主の救いのみ業を語り歌うのです。(「主はその腕で力を振るった」、「思い上がる者を打ち散らした」)。マリアが生きている世界は、まだ主の救いのみ業が実現したとは言えない、思い上がる者がはびこり、権力ある者が力を握り、身分の低い者は虐げられ、富める者が得をする世界。けれども、未だ主の救いのみ業が実現しているとは思えない世界で、マリアはすでに実現したと歌うのです。

  「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った」。マリアは妊娠六か月から九か月のエリサベトと共に暮らしたことになります。エリサベトのお腹は大きくなっていたでしょう。ただでさえ体が重くなり大変なのに、エリサベトは高齢でした。そのようなエリサベトをマリアが助けていたのかもしれません。またエリサベトはマリアより六か月先に身ごもったので、これからのことについてマリアに助言していたのかもしれません。互いに助け合いながら、三か月共に暮らしていたのです。その親しい交わりは、主イエスを指し示すヨハネと主イエスが共にいたのです。主イエスを中心とした交わりなのです。マリアとエリサベトは指し示される主イエスとともに、お互いの苦労を担いあったのです。私たちの教会の交わりは、このような交わりです。人から受ける親切、助け合いの交わりではありません。主イエスが中心におられる交わりです。

  マリアの状況は何も変わっていませんが、にも関わらず、神は「目を留めてくださった」。マリア一人ではその事実を受け止めることは難しかったでしょう。エリサベトがいたから、マリアは気づくことができたのです。マリアは一旦は天使の言葉を受け止めました。けれども同時にすぐ、天使の話にあったエリサベトに会いに行きます。会うなり、エリサベトはマリアに言います。「あなたは女の中で祝福された方」(2:42)。未婚のマリアは、天使の言葉の「恵まれた方」の意味などわからなかったかもしれません。けれども、エリサベトはマリアに何度も「祝福された方」と伝えたのだと思います。そうするうちに、マリアも気づいていくのです。「これは神の出来事だ」と。私たちも、何度も繰り返し言ってもらわなければわからないことがあります。礼拝の中で「あなたは神から祝福されている」と語られても、日々の中でわからなくなってくる。マリアもそうだったと思います。「神から祝福されている」けれども不安と疑いが甦る。信じては疑い、喜んでは不安になる。私たちの姿と同じです。マリアは3ヶ月滞在して家に帰りました。3ヶ月必要だったのです。エリサベトには負担だったかもしれない。しかしマリアに必要だったのです。 最初は自分の小さな世界しか見えていなかったであろうマリア。その中で不安だけが大きくなる。そして、エリサベトを通して祝福の宣言を聞かされたのです。神が、こんな私にも目を留め哀れんでくださっている。祝福してくださっていると。貧しいこと。小さいこと。弱いことは不幸ではないのです。主イエスはこの後、貧しい人々は幸いだとお語りになります。口だけではなく、本当に貧しい身になってみないとわからないと言われるかもしれません。どうにもできない思い、身分の低さによる辛さ。情けない思いもする。しかし、それが不幸ではないのです。主が仰るのは、キリストを軸に人生を捉え直すとき、それはひっくり返るということ。キリスト以後の主が共にいる世界を生きるのです。 神が身分の低いマリアに目を留められたように、その同じ眼差しをもって、私たちのことをみてくださっています。主なる神が目をとめてくださる。その中を生きているのです。