2022年11月27日主日礼拝
「何があなたを救うか」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 22章41~46節

【説教録画は <Youtube>】

 アドべントを迎え、教会の新しい一年が始まります。クリスマスを迎える時期は一年を振り返る時でもあると思います。一つ一つの神からの慰めと神の恵みを振り返りつつアドベントの時を歩みましょう。

  本日の聖書はファリサイ派の人々と主イエスのやりとりの続きとして記されています。人々が待ち望んでいる、「メシア」は「ダビデの子」である。そう聖書に記され、確かに「ダビデの子」なのです。けれども、それはどんな意味をもって語る「ダビデの子」なのか。そのことを主は問われます。 マタイ福音書の始まりは「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト」という系図から始まりました。「イエス・キリスト」という呼び方は、「イエスはキリスト」と告白の言葉です。「イエス」は名前で「キリスト」は「油注がれた者」という意でギリシア語の「クリストス」。これが旧約の書かれたヘブライ語では「メシア」となります。「メシア」の名は、国家的、政治的、軍事的な力と栄光を意味しました。

 イスラエルは、ローマ帝国の支配にあり、政治的軍事的な独立を奪われ、人々は重い税金に苦しみました。今こそ約束のメシアが現れ、ユダヤの独立と解放を成し遂げる。そうした権力的救いを待ち望む信仰は、頂点に達していたと言われます。 メシアの称号として、多く使われていたのが「ダビデの子」です。いつの日か、ダビデの血統から偉大な王が出てイスラエルの敵を滅ぼすという期待がありました。
  主イエスは、ダビデが書いたと言われる、『主は、わたしの主に仰せになった。「わたしの右に座に着きなさい…」』(詩110編 1節)を引用します。「主」である神は、我が「主」メシアに仰せになった。という意味です。ダビデはメシアのこと主と呼んでいるのです。「メシア」が「ダビデの子」ならば、なぜダビデは「息子」を「主」との呼ぶのか。メシアをダビデの子と呼ぶのは相応しくないのだということを言っているのです。しかし、彼らは理解していないのです。彼ら自身の聖書の言葉を理解せず、黙ってしまった。

  これを記したマタイは、キリストは神の右に座したもう、と告白する教会として、十字架と復活の出来事を知った後に、これを記しています。ある人は、キリストの死と復活による救い、キリストを救い主と告白する、キリスト教の視点からしか、聖書を本当には理解できないと言います。つまり、ファリサイ派の人々にとって、聖書は謎であり続けるのです。 
 メシアを「ダビデの子」と呼び、またダビデの血を引く征服者、軍の指揮者と思うのでは正しい理解ではないのです。ダビデの子はメシアの正しい称号ではなく、神の子と呼ばわれるべきなのであり、つまり主イエスを「神の子」と呼ぶことです。 主イエスは「ダビデの子」だけど、あなたたちの思う、上からの支配をする権力者ではない、ダビデの子としての存在です。 上からの支配ではなく、下へ下へと向かうものでした。

 それはクリスマスの出来事であり、また十字架の出来事です。来るべきメシアが「神の子」なら、国の征服は神の愛によってなされるのです。神の愛は、捧げる愛です。犠牲を伴うものでした。神の子を捧げてしまう愛です。十字架の上で、神の愛を示すため、子として主イエスは来られました。 愛がなければ、私たちはどうして自分自身を支えられるでしょうか。メシアによる支配はローマの支配を抑え、ダビデの王国復興、上からの権力による支配ではないのだということを主イェスは聖書の言葉を通して伝えているのです。 

 愛するということによる支えがなければ、誰が私を肯定してくれるでしょうか。生産性、能力、技術、そうした貢献がなければ、存在が認められない。そうゆう社会の仕組みの一部ではなくて、あれができない。体力もない。お金もない。ミスをする。忘れ物ばかり増えてくる。それでもあなたが大切だと神は仰ります。あなたが気づかぬうちに壊した、神との関係を、あなたが安心して、平和のうちに生きることができるように、回復しよう。そのことにあなたが気づくまで、何度でも手を差し伸べよう。そのようにして、愛の支配で包もんでくださいます。そのことがクリスマスの出来事に現わされていくのです。 アドベントからエピファニー(公現日1/6)まで、クリスマス物語の聖句と礼拝で聞きつつ、この1年に起こった出来事を、聖書との対話の中で思い巡らせる時を過ごしていきたいと思います。