2022年11月20日主日礼拝
「崩れる中で見つめるもの」小松 美樹 牧師
歴代誌下 36章11~23節

【説教録画は <Youtube>】

 合同礼拝を捧げています。
 教会学校でいつも配る、「聖句カード」があります。今日の聖句カードは暗い大地が描かれて、小さく人影が荒地を歩いています。自分の生まれ育った地を離れ、バビロンに連れていかれるのです。けれどもそこには、天からの光が差し込んでいる。
 この人々は、神様から遣わされた預言者の言葉を聞きませんでした。神様がいるのに、預言者を通して語られているのに、他の力に頼りすぎた人々は、今、それまでの生活すべてを壊され、もう戦うことも、張り合うこともなく、神様の言葉を再び聞くことのできる生活へと変えられようとしています。

  神様の言葉とは、「約束」がありました。どんなときにもあなたを見捨てず、共にいると約束してくださる神様です。しかし、人々は次第に忘れてしまいました。時に順調であれば、自分の力で突き進み、苦しいときには、約束の言葉では足りず、間に見える解決を求めてしまうのです。預言者の言葉も届かず、人々は神様から離れて行き、自分の願いを聞いてくれる神様じゃなければ神ではない。それは、神ではなくて、人の僕、奴隷です。そうした思いに、人々の気持ちも別れ別れになり、争いが生まれてしまうのです。 

 神様は、世界を造り、人を創造された、造り主です。私たちのことを大切にし、愛してくださる方。みなさんは、「大好きな人に話を聞いてほしい。」、そう思うことは沢山あるでしょう。けれども、家族に「ねぇ聞いて!」。「ねぇ、見て!」。そう語りかけても、聞いてもらえない。見てもらえない。家族や大人たちは、「今忙しいからあとでね。」と手を留め、体も心も向けて聞くことを怠ることがあるかもしれません。神さまもみんなに神様の言葉に耳を傾けて、良い関係を作りたかったのです。けれども人々は聞きませんでしたし、神様の言葉を忘れて、自分たちの気持ちでいっぱいでした。神様は、どんな時にも私たちから離れず、見捨てない方である。そのことを信じて生きてほしいと願われています。このまま神様に背を向け、背き続けるその生き方を止められました。それがバビロン捕囚です。

 エルサレムの全てが崩されました。エレミヤを通して告げられた言葉が実現し、「ついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。」。 「バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」(エレミヤ29:10)。 捕囚の間、歴代誌は荒れ果てた土地が七十年、「国が打ち捨てられ、あなたたちが敵の国にいる間、土地は安息し、その安息を楽しむ…安息を得る。」(レビ26:34-35)。

  安息の時が満ちたのだと説明しています。捕囚の出来事は辛さを抱えますが、人々はバビロニアで暮らす間、もう互いに攻め合い、張り合わなくてもよくなったのです。これまで聞くことがでず、背を向けていたことが間違いであったことに気づき、神の言葉を聞くようになったのです。神に対する大きな罪のゆえに、異国の地に連れていかれたイスラエルの民は、悔い改め、罪を赦され、再びエルサレムへと帰って来るための準備の時でした。 

 人々にとっては、国を失い、礼拝する場所さえも失くしてしまったのです。自分たちの過ちを見つめるときだったのです。けれども、神様は、自分自身の悔やむ心をいつまでも見つめていなさいとおっしゃる方ではありません。何を見つめるのか。創造主なる神を仰ぎ、見つめるのです。

 「思い悩むな」、「空の鳥をよくみなさい」(マタイ6:25-)。悲しみの時、崩れ落ちそうなとき、うつむき、自分の思いにばかり目を向ける私たちに、主イエスは創造主なる神の私たちへの思いと支えに気づくようにと語ります。 荒れ果てた暗い、絶望のような世界を歩く人々は、もう、神の言葉を聞かない生活や、神さま以外の物に頼ることのない歩みが待っています。人々の行く手に、祝福の光が差し込んでいるのです。