11月6日 永眠者記念礼拝
「最も重要なこと」小松美樹 牧師
マタイによる福音書22章34~40節

【説教録画は <Youtube>】

 日本基督教団で定められた聖徒の日に、信仰の先達を覚え、永眠者記念礼拝を捧げています。神のもとで長い眠りに就いている方々を思い起こし、神のお取扱いを知る。それが今日の礼拝です。 
 
 教会は神を礼拝し、神の愛と救いの喜びを伝えます。向河原教会は今年で伝道開始71年を迎えました。創立当初から変わらず続けられているのは、その礼拝と伝道です。 地上での歩みを終えて眠りについた信仰の先達もそのように歩んでまいりました。 ここに集う方々はそうした信仰者であるご家族を見送ってきたことでしょう。そして、そのご家族の信仰の祈りによって、教会へと連なるものとされて今があるのです。

  向河原教会の墓石には、「我らの本籍は天にあり」(フィリピ3:17)という言葉が刻まれています。そのように言い切れるのは、イエス・キリストが私たちを天の国に迎え入れるために、十字架の上で死に、命を捨ててくださった。その事実があるからです。私たちが天の国籍を持つのは、神の愛が、信じる私たちを天の国の国民にしてくださったからです。教会も、先に召された者たちも、神の愛を確信しています。 神がどのような方であるのか、主イエスの言葉に聞き、正しく神を知る時、私たちは神を愛することがどのようであるのかわかるはずです。

 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』…」。 
 社会では、神を愛するという事を聞くと、毛嫌いする人が多いかも知れません。宗教にはまるとか、教会に熱心になり、家庭を顧みないと思われる面があります。人が神を信じて、神を愛し始めると、今度は人を、隣人を無視して聞き入れなくなると思われているからです。しかし、「そうであるはずがない」というのが主イエスの言葉です。 神への愛と隣人への愛が分裂して、自分は神を愛するから、他の人への愛どころではない、という人がいれば、それは間違っているのだと思います。主イエスは、神を愛する事と、人を愛すること、それは一つであり、それが最も大切だと言われました。 主イエスが言われた二つの言葉は旧約聖書に書かれ、第一の掟は申命記(6:4-5)。第二の掟はレビ記(19:18)。別々の場所に書かれた言葉を一つの大切な事として言われました。 二つとも、愛する事が命じられていて、神を愛するほかに何も差し込まず、肉体的も、精神的にも、思いにおいても、愛することに集中しなさいという命令です。

 「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」
第一の掟の申命記6:5の言葉に続けて、こうあります。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。…家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(申6:6-9) 。ユダヤ人は礼拝毎に、この掟を唱え、普段の生活でも、日毎に唱えていたわけです。ですから、誰もがよく知っている教えでした。しかし、掟は何の力も持たなくなっていたのでしょう。ファリサイ派は多くの掟を守るあまり、この言葉は古くなり、大切な意味がわからなくなってしまった。だから、最も重要なものは何か?と聞かなければならなかったのです。

  私たちは命令されなくても、人を愛するということの大切さを理解しますし、そうしたいと願う事ができます。しかし、それは条件付きであることが多いのではないでしょうか。思い通りにならない自分が気に入らない。相手に対しても、自分の期待に添わない人は面倒。親は、素直だった子どもが、どうして、自分の思い通りにならなくなってしまったのか、分からなくなる。自分の愛に答えてくれないので苛立つ。人に対しても、自分に対しても、満たされない思いが残る。私たちの愛は、条件が満たされなくなったとき、大きな破綻を招く愛です。 しかし、本当の愛には、何の条件も必要は無いのです。神の愛は、「わたしとあなた」。あなた があなただから愛するというものです。 この神の愛が知識で分かったら、どんなに簡単かと思いますし、言葉で伝えられたら、どんなに良いかと思います。しかし、愛は体験しなければ分かりません。人の痛みというものが言葉では十分に伝えられないのと同様に、愛は体験しないと分からない。だからこそ、聖書が、福音書が主イエスを通して、神の愛を私たちに与えてくださるのです。

  ある人は、神の愛は「新生児にとっての親に対する全面的受容」に似ていると言います。親がどんなに汚れていても、それをひっくるめて全体を愛してしまう。大人になると、全くそのようにできない自分に気が付きますが、幼子は、今、何を考えていようと、昨日、何をして、何をされたか。それらは関係なく、ただ目の前にいる親を信頼する。それが赤ん坊の眼差しです。  ただ、あなたが目の前にいる。それをよかったと言ってくださる。これが、私たちを御覧になる神の眼差しです。 私たちの信仰の先達たちもいつもこの神の愛を経験し、神を愛し、また隣人を愛したいと願われてきた者たちです。そしてここに集う私たち一人一人も、この神の眼差しに入られていることを思い出して歩みたいと思います。