11月13日 神学校日礼拝
「どのように生きるか」高橋 幸 神学生(東京神学大学大学院2年生)
ローマの信徒への手紙 12章1~2節

【説教録画は <Youtube>】

  ローマの信徒への手紙12章は「どのように生きるのか」を取り扱っている箇所です。
 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」礼拝、それはつまり神を崇めることです。キリスト者は、神に自分自身をささげて、神を崇めて生きなさいということです。

 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」 自分を変えていただき、御心を求めて、どのように生きるべきか神様に聞きなさいと、言われています。

 いたってシンプルな教えだと思います。神に愛される者として、神を崇め、神の御心を求めて生きる、確かに、キリスト者の生き方として、大切なところを言っているように思います。 それでは実際のところどうでしょうか。ここにいる人の中で、生きていない人は、一人もいません。ですから、どのように生きるのかという問いは、ここに集う全ての人に関りのある事柄です。生きるということに必ず向き合わなければなりません。しかしふと思うことがあります。そもそもどうして私たちは、どのように生きるべきなのか、考えなければならないのだろうということです。今日の箇所には、どのように生きるべきなのかが示されています。とてもシンプルに分かりやすく、はっきりと述べられています。どうして私たちは、この御言葉に出会い、今一度生き方を自分に問い直してみないといけないのでしょうか。それは、私たちがどのように生きるべきか、自分では分からない存在だからです。 私たち人間は本来、神を崇める存在としてつくられました。それが人間の本来の姿です。けれども、罪によって、自分中心な生き方をするものになってしまいました。神に愛され、神を愛するという神との関係を壊してしまいました。本来の姿を失った人間は、自分を愛してくださるお方を見失って、自分自身を見失ったのです。自分の生涯がなんのためにあるのか知らないものとなってしまったのです。 人間は自分で自分の存在を肯定することはできません。自分で自分をつくったわけではないからです。おつくりになったのは神さまです。しかしその神さまとの交わりが壊れてしまったのです。自分で自分に生きていていいよ、と空しい独り言を言わなくてはなりません。自分で肯定できないならば、自分ではない何者かに求める他ありません。自分に生きていていいよと言ってくれる存在を求め続ける飢えと渇きの苦しい歩みが、人間を襲うのです。神様に自分の存在の意味を聞くことができない、それは本当に苦しい日々です。しかしこの苦しみを背負った人間を、神様は憐れんでくださいました。神様との関りを失って苦しむ人間のところに、イエス様を遣わしてくださいました。そしてこの苦しみを、イエス様に負わせたのです。

 イエス様は十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」そう叫ばれました。私たちが見捨てられないために、イエス様は神様に見捨てられたのです。神を知らないものとして生きてしまう私たちを、神様はよく知ってくださって、関わりの扉をもう一度開いてくださったのです。そしてイエス様が神様と私たち人間の間にあって、関係をつないでくださっています。

 離れて行った人間と、関わろうと決められたのは、神様です。救いの業は、この世に倣って神がなさったのではありません。神様が人間を救おうとお決めになってなされた業です。私たちの命と人生を肯定し、生きていくことをよしとしているのは、この神様の愛の決断です。ですから、今日の箇所に記されるように、私たちに示される生き方はシンプルで明確です。神様の愛の決断に感謝して、神様を崇めることです。私たちはこのシンプルな生き方を、ときに自分で複雑にしてしまいます。愛されるために自分を傷つけたり、神様に愛されることを遠慮したり、もっと他のものに可能性を見出そうとしたり…。けれども複雑な生き方は、自分を歪ませてしまいます。神様が求めておられるのは、そんな複雑な生き方ではありません。神様に愛されることを受け取って、感謝する生き方を神様は喜んでくださいます。

  また示されているのは、御心を求める生き方です。自分の人生の意味が何か、自分で完全に分かりきっている人間など一人もいません。けれどもそれは私たち人間に与えられた喜びです。分かっていないからこそ、知っていてくださる神様に求めることがゆるされ、神様との関りが深められていくからです。

  この一週間をどのように生きるべきか、私たちには問いが与えられています。けれどもその答えを知っている神様は、私たちが御心を問うことを待っておられます。閉ざされていたはずのこの扉が開かれていること、神様に愛され、愛する関りの内に生きることを赦されていることを感謝して、今週も歩んで参りましょう。