2022年10月9日主日礼拝
「婚宴に招かれたらどうするか」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 22章1~14節
10月9日9時半から教会学校

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 教会は「神の招きによって礼拝に来た」と言います。生活上の都合によって来られる日もそうでない日もありますが、この日、この時の一度限りの礼拝に集まったのは、神の招きと導きによるものと教会は信じています。 

 本日は神学校日です。神学校に入学する時、神の召命を受けて入学するのか確かめられます。「召命」「召される」とは神に呼ばれることです。牧師になることや、職業の他、神から与えられた使命として「召命を受ける」と言います。教会はそうして、神の招きを受けて呼び集められたものの集まりです。キリストが再び来られる「再臨の時」、「審判の時」を待ちつつ礼拝を捧げ続けます。 

 本日のたとえ話は「その時」のことが結婚の祝いとして語られます。祝いの席に招待を受けたら、出欠席の連絡をします。招待してくれた人の気持ちを考えれば当然です。 しかし、招いた人々は「来ようとしなかった」「そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。…「食事の用意が整いました。…さあ、婚宴においでください」。しかし、人々はそれを無視し、それぞれの仕事に行き、また王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまったと言います。招待をした王と王子はきっと悲しかったと思います。王と王子のことなど、遠い存在なのでしょう。仕事を休み、時間を作り、お祝いに心から行きたいのではなく、面倒で日常の事柄の方が大事で、気になるのです。 「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」。衝撃な結果です。しかし、これは天の国の話。この王は神であり、婚宴とは天の国の喜びの宴です。この譬え話は神と人との関係について語られています。「終わりの日」と言われる、その日、その時になれば、必ず、婚宴の席に入る者とそうでない者に分けられてしまうのです。だから主イエスはここで話している祭司長、民の長老たちに、思い返し、天の国の招待を受けて欲しいと願っていたはずです。そのためにこの譬えを語られました。 

 「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」「そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」。徴税人や娼婦たちのように当時のユダヤ教の指導者たちからは、悪人、罪人扱いされた人々も神の国に招かれているのです。

  そうした中に「礼服をつけていない者が一人いた」。王宮に招かれる者には同時に晴れ着が与えられる習慣がありました。この者にも礼服が用意されていたことでしょう。しかしこの人はそれを着ないでここへ来た。そのことを王である神は聞いています。厳しくではなく、「友よ」と声をかけて。この礼服は神が用意したものを受け取ること。つまり、イエス・キリストのことだと見ることができます。私たち自身で神の前にふさわしい姿に自分でなることなどできないのです。しかしそれは神が用意してくださっているのです。自分で自分を良くすることも清めることもできない私たちに対して、イエス・キリストを身にまとう。それが神の前に出る姿なのです。 

 聖書は僕たちも主の働きの担い手として用いて、またそこにも私たちの姿を映し出します。王の「家来」は、奴隷や僕と変わりない言葉です。王の使いとして出て行き、「食事の用意が整いました。さぁおいでください。」と言う。その言葉を僕たちに王は委ねるのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2)と重なる言葉です。それは天の国の喜びを担う者たちによって、今日も礼拝に招かれているのです。「どうせ来ないよね?」、「使いで仕方なくやっているんだ」ではなく、僕に託されたのは喜びの言葉です。教会に集う者は、招く者になるのです。 神を信じて生きることは、神に招かれていることを日々確かめながら生きることです。礼拝集められた一人一人が善人か悪人かも関係なく、神に招かれているのです。けれども、私たちは、その招きを無視してしまうということが起きているのです。

 「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。どうしたら、選ばれる者になれるのかという話ではありません。これは手遅れにならないためであり、そうならないために語られているのです。そのために、主イエスがこの世界に来てくださったのです。キリストという礼服を、人目につかぬよう隠してしまったり、無視するのでなく、 婚宴の席を招いた人々で満たしたいという神の招きに応え、待ちわびていた天の国の完成の日を、神と人とが互いに喜び合える時を待ち望みましょう。