2022年10月30日主日礼拝
「名を呼び、共に歩んでくださる神」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書22章23~33節

【ネットは <Youtube>】

 復活という言葉、出来事を語るのに、難しさがあると思います。相手に受け入れられない思いや、否定されるかもしれない不安を持つからではないでしょうか。しかし、このことは現代に限らず、聖書の時代からそうでした。復活など、迷信。不確かなことだ。そう言われているのが今日の聖書の箇所です。

 「復活はないといっているサドカイ派」。聖書に書かれた通りに礼拝生活をしようとしていた人々には、ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派という3つの指導者グループがいました。ファリサイ派とエッセネは、時代と共に生活様式や律法の解釈を変えました。

 エッセネ派は、自分たちの生活を律法に合せるために、町の生活を止め、荒れ野に出て行き、聖書に照らした生活をしました。ファリサイ派は、律法を生活の変化に合わせて、多くの解釈を生み出しました。サドカイ派は、聖書の最初の5つの書(創出レビ民申命記)いわゆる「モーセ五書」だけを大切にし、それに従って生活しました。祭儀と関係の無い、聖書の後半の預言書や詩編は読まなかったのです。旧約聖書にはあまり復活のことは書いてありません。ダニエル書やイザヤ書などの預言書には書いてありますが、サドカイ派が大切にしていた五書には書いてありません。だからサドカイ派は、「復活はない」と言うのです。

  また彼らは、もし復活があるなら、おかしなことになる。だから、復活はないのだという主張したのでした。「跡継ぎがないまま…その女性は誰の妻となるのでしょうか」。跡継ぎを残すための義兄弟結婚(レビラート婚)。それを繰り返した女性は復活の時に誰の妻になるのか、という問いです。主のお答えは「聖書も神の力も知らないから思い違いをしている」。復活などしないと思っているから、そういうことを言うのだと言ったわけです。 復活を信じている人は、そもそも、レビラート婚などしないとういうことです。死んだら終りだだと思っているから、跡継ぎを残さないと途絶える。忘れ去られる・・。「死んだら終り」だから、結婚をし続け、この世に残すものがないといけないと考えるのです。 また、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と言います。

 私たちは復活の時のことを想像する時、身体の一部を失ってしまった人は、どうなるか。そのままの姿であるのか。痛みを持つ人は、そのままの姿で復活するのか。一緒に居たくない人も、また復活する。それのどこに喜びがあるのか。そのように考える話を聞きます。けれども、それらは全部、この世の地上の世界の延長として考えているのです。この世の生活の延長線上に復活を考えることはできないのです。「天使」の存在も、復活の後の在り方も私たちの想像を超えた「神秘」であり、人間の生活を天の国でも同じように考えることはできないのです。けれども、キリスト者は、死によって、その先を遮られてしまっているので、多くのことはわからないにも関わらず、主がお語りくださる将来を、「今」私たちは持っている。そういう生活をしているのです。

 「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。主イエスはここで、復活という言葉を使わずに、死んだ者たちが、死んだままではなく、神の下で生きているという事、復活のいのちに生きている事を伝えます。すでに墓に葬られ、死んだ者たちの名前を挙げて、「アブラハムの神」であると言うのです。 「彼らが生きていたときは、」と過去の話をするのではありません。主が仰るのは、アブラハムは、死んだ者ではなく、「今、神の御前に生きている」ということ。それなのに、あなたがたは大変な思い違いをしている。そう言っておられるのです。つまり、アブラハム、イサク、ヤコブはとうに死にましたが、神によって、神との関係において、生きているということです。

 教会で逝去された方を「眠りに就いた」と表現するのはこのためです。肉体においては死にましたが、神との関係においては生きており、今は眠りに就いているのです。 復活の知らせは、私たちに、この世界のあらゆる事柄、不確かな明日・将来を支える、主の約束であり、確かな指針です。 私たちは、死んだら終りなのではない。その希望を持っています。復活などないと言う言葉を、主は打ち消されます。主が復活されたように復活する。その約束を持った者たちなのです。神は「わたしは、あなたの神」、「〇〇の神」と、名前を呼んで下さるお方です。私たちは、それに応えて、洗礼を受けました。その呼びかけに応えて、今、礼拝へとやってきました。ここにいるのは、名を呼ばれた者たちです。 死という壁が、私たちを不安にします。目に見える現実が、私たちの将来、死の先にも希望を持つことを妨げるときがあるでしょう。しかし、だからこそ神は、繰り返し私たちの名を呼び、礼拝へと招いて下さるのです。