2022年10月2日主日礼拝
「神の業は不思議に見える」石丸 泰信 先生
マタイによる福音書 21章33~46節

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 「ぶどう園と農夫のたとえ」を読みました。これは主イエスがエルサレム神殿で、祭司長、ファリサイ派の人々、また、そこに居合わせた多くの人々に向かって語られたたとえ話です。旧約にもそっくりな「ぶどう畑の歌」と呼ばれる歌があります(イザヤ5:1-)。そこで問題にされているのはぶどうの実の質。しかし、今日のたとえ話では、ぶどう畑を管理する農夫たちに焦点が当てられています。 

 当時、不在の地主が農地を貸すということは多かったようです。互いに契約をし、一定の割合(1/3~1/4)の収穫を主人に納める義務を農夫たちは負いました。この譬えでは主人はぶどう園の環境を全て整えてから貸し、旅に行きました。農夫たちに求められていたのは契約への忠実さです。信頼されていることを受け止めて、適切な管理をするべきでした。しかし、実際、彼らはそうはしませんでした。「さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた」

 これは何の譬えか。預言者たちです。この世界に神はイザヤ、エレミヤ、エゼキエルの3人を送りました。しかし、人々は耳を貸しませんでした。その後も、多くの預言者…12小預言書と呼ばれる短い文書を残している預言者たちを送ったが、同じ目に遭わせたというのです。そして、最後に主イエスを送ります。「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。」この時の主人の思い、つまり神の思いは「敬ってくれるだろう」です。収穫を渡してくれるか否かではなく、信頼の回復。もう一度、自分たちの関係を思いだして欲しいのです。

 けれども、「農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」。この話をした後に、主イエスは人々に尋ねます。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らは答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」。これは謂わば、常識的な反応です。
 
 この譬えが面白くも難しいところは、主イエスがさらに譬えを重ねているところです。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』」。これは詩編118編22-23節の引用です。実際にこれから起こる出来事は、これだということです。「捨てた石」が、「ぶどう園の外に放り出して殺されてしまった」息子。つまり主御自身に重ねているわけです。

 「隅の親石」とは、石を積み上げてアーチ状の橋を作る際、最後に真ん中に入れ込む石。ピッタリはまると全体が固定される要石(keystone)です。主の言われたことは、石工が「いらない」と言って捨てた石、つまり、息子の死が思いがけず、神と人とを繋ぐ架け橋となったということです。そして、それは「主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」と。 
 
 わたしたちの常識は、価値がないと思ったものは捨てるというものです。他方、神は、それを拾おうとなさる方。そして、わたしたちに対して問うて来られる方です。例えば、失敗したとき、誰かに嫌われたとき、理解者がいないとき。もう自分の人生を捨てたいと思うことはあると思います。しかし、その時、主は言われるわけです。「でも、その人生をあなたはどうする?聖書に書いてあることを知らないのか」と。 

 嫌われることや失敗すること。そのいずれも、自分ではなく、他の人であるかのように振る舞って生きていれば、陥ることは無いのだと思います。上手く装うことはいくらでも出来る。その一方、自分の人生を、自分らしく生き始めるとき、人は失敗するのだと思います。でも、失敗は嫌だから、また、自分ではない誰かのように生き始めてしまう。けれども、神は拾うわけです。「たった一回のあなたの人生、あなたが捨てたら、誰が、あなたに用意した道を歩むのか?」と。それはわたしたちの目には不思議な体験です。

 捨ててしまう一方で手放せないものもあると思います。譬えの中の農夫たちは、もともと息子を殺そうと思っていたわけではありません。「見て、話し合っ」て決めました。農夫たちにとって、主人はもはや、直接に自分たちになにかの影響を与えてくる力はないと思っていたのです。遠い存在です。これはわたしたちが生きる世界の父なる神を表しています。礼拝をするが、それは形式的なものであって、実際は、居ても居なくても影響は無い。だから、跡取りを殺してしまえば、いよいよぶどう園は、この世界は我々のもの。そう話し合ったわけです。

 この譬えは、わたしたちと世界の関係を言っています。天地創造の際、神はこの世界を人間に任せたと言います(創1:28)。管理(支配)を任せたのであって、自分の好きなようにして良いわけではない。それを徹底的にアブラハムは味わいました。イサク奉献の出来事です(創22)。自分の息子を手放すなんて信じられないと感じたと思います。しかし、自分にとって信じられなくとも、まだ、自分のわからないことがあるかも知れない。だから、神の言葉に任せてみよう。彼は神との信頼関係を思いだしたのです。 

 誰にでも、送り出さなければいけないときがあります。夫にとっての妻、妻にとっての夫。友人、家族。いずれも自分の所有ではないからです。でも、返したくないと思ってしまう。けれども、神は遠く、自分たちの生活に影響を及ぼさない存在といって、神を見なくなるとき、目の前の大切な人の本当の姿も見えなくなってしまいます。この人といる時間は、与えられた特別な時間であること。いつかお返しするときが来る、だからこその今という時間です。聖書が全部を自分のものにしてしまおうとする農夫の譬えをするのは、わたしたちが、この世界や隣人をきちんと見ることが出来るためです。神の信認の中で特別な時を過ごしていることを大切にしたいと思います。