2022年2月6日主日礼拝
「人の間に住まわれる救い主」
小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 15章53~58節

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 主イエスは生まれ故郷にお帰りになって、会堂に入り人々に教えられました。人々は「知恵と奇跡を行う力」に、非常に驚いたのです。しかし、こうも思いました。あの家の「大工の息子ではないか」。 故郷の人々は少年時代から主イエスとその家族を知っています。自分の家を建ててくれたあの大工の家。幼い頃からこの村で育ち自分たちの間で大きくなったあの家の子だ。そう思って、子ども時代の主イエスを思い浮かべ、「我々と一緒に住んでいるではないか。」と信じる思いを失いました。

 幼い頃からよく知る関係、地域の中に、主イエスもお育ちになったのです。教会の中にも、そのような関係があります。それは嬉しいことだと思います。 私が神学校に通うようになった時、私を幼い頃から知っている教会の人は、良い意味でも悪い意味でも、「あの小さかった子が。」と思ったでしょう。当時、出席していた教会では、「あの人が神学校に行くの?」、「神学生としては見られない」と思う人もいたかもしれません。皆、同じ一人の礼拝者ですから、その中の一人が神学生になっても、何か身にまとったり、突然に変わるのでもなく、何も変わらないのです。けれども、神が語られる言葉に耳を傾けていくことで、伝道者となっていくのです。 

 幼い頃から知っている関係や、あの人の悪い癖を知っている。そうしたフィルターを持って人を見るとき、たとえ相手が驚くべきこと、教え、行いをするのを見ても、受け入れられないことが起こります。相手が年老いていく親であったり、中の良くない親戚であれば言葉を受け止められないことや、子どもをいつまでも子どもと思っていると、一人の人として見ることができないことだってあるでしょう。家族が驚くようなことをした時には「またこんなことをして」、「恥ずかしいからやめて」と思うかもしれません。 主はこう言います。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」。主イエスの「故郷」はナザレですが、ここで言われる「故郷」は、私たちの「故郷」でもあり、「教会」でもあり、それぞれの出身の家庭と読み替えても良いと思います。神の業である「聖霊の働きによって」、という見方を「故郷」の中では失いやすいのだと言うことです。身近な人たち程、悪気なく、人と背景を見てしまいます。 「つまずく」は「スキャンダル」が語源となっています。私のスキャンダルが噂になったら、教会で私が講壇に立つだけで、礼拝への思いが失せることが起こるかもしれません。しかし神は罪人を用いるのです。その神の業に「つまずく」のです。主は「わたしにつまずかない人は幸いである。」(11:6)と言われました。しかし、皆つまずくのです。主イエスによって成される神の大きすぎる御業の、救い主の十字架の死に、誰しもがつまずくのです。 主イエスはあまりにも人々と近すぎるお方だったのです。日常の中に居て、人と何も変わりがないお姿なのです。しかし、ただ一つ違うのは「復活」です。 私たちと何一つ変わらない、ナザレの人イエスが人々に「教え」を語っても、「おかしい」と思ってしまうのです。それは、私たち自身が理解できる範囲の中でしか捉えることができないからです。主イエスが神の領域の話をしても、見えない領域であり、経験したことのないもので、証明することができません。目の前に真理があり、真実を主イエスが語っているのに、判断するのは私たちが、自分の理解の中でしか、経験でしか、受け止められないのです。 神を知るために私たちに求められる唯一のものは、神の前に砕かれた、幼子のような心です。それ以外にどのような心を持って主イエスに近づいても、真実の主を知ることはできず、主のお力を見ることもできないのです。 

 神であり、神の下におられたキリストが、その立場を捨てて人間になられました。飼い葉桶に寝かされたキリストの姿ほど、神の心を示すものはありません。神は人の上にではなく、下におられる方なのです。それは私たちと共におられる神のお姿であり、それをわたしたちに伝えようとなさる神のお姿です。背を丸め、ひざを屈め、身を低くして、私たちに語られる神のお姿です。この神の姿に触れ、その命に生かされたとき、私たちも身を低くして人を愛し、人と共に生きる力が与えられるのです。主イエスは人となられました。天におられた方が、人々の生活の中に身を置かれたのです。