2022年1月9日 主日礼拝
「天の国の秘密」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 13章1~23節

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 13章に入り、たとえ話が続きます。「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた」。 4つの土地に落ちた種について語ります。
①「ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」
②「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」
③「 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。」
④「 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」 
 
 18節から「たとえ話の説明」がありますが、種は御言葉で、撒かれた土地は私たちの心を現わしています。
①の土地に蒔かれた種は「御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。」。道端に蒔かれたものとはこのような人。
②「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」
 ③「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」
 ④「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」。

 種を蒔く人よりも、種がまかれた土地に意識が向くような書き方がされているように思います。しかし、主イエスは「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。」と言います。

  弟子たちは主イエスに『なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか』と尋ねました。『あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない… 見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。』 イザヤ書の6章にある言葉です。「この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。」。そのことが、主イエスの話を聞く者たちの間に起るというのです。人々には、馬鹿馬鹿しくて「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ことが起こります。たとえ話はそういう働きをするのです。私たちが使う「たとえ話」は、話したいことに対して、より具体的に説明したり、わかりやすくするものとして「たとえ」を用います。しかし、聖書で神の国について、たとえを用いて話す時、わかりやすく見えるようにもあり、よくわからないものとしても現わされます。たとえによって「おおわれてしまう」のです。だから、「あなた方」には「天の国の秘密」を悟ることが許されている」と言います。よく聞こうとする者にはわかりやすく、聞く耳を持たない者には受け入れられないものになってしまいます。

 「あなた方」とは弟子たちであり、わたしたち教会に向けて言われています。弟子たち、教会に明かされる、「天の国の秘密」は、「多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかった」ものなのです。 

  私の子どもはよくなぞなぞを出します。「ねぇねぇ聞いて!○○はなーんだ!?」。私は他にやりたいことがある時や、忙しくしていて、ゆっくりなんて考えていられず、「なんだろう?わからない!」と考える振りだけして、返事をします。大して聞いてもいません。しかし「よく聞いて、考えてね!」という思いが、そのなぞなぞには隠されていて、一緒によく考えてほしいのです。そして、「わかった!これかな?」「そう、あたりだよ!」とそんなやりとりであってほしいはずです。聞く耳を持とうとして、聞いてほしいのです。 

  私たちのイメージする種まきは、場所を選んで、必要な分だけ種を蒔きますが、この農夫には気前の良い大胆さがあります。そして種を蒔いてからその土地を耕すのです。農夫が手をかけて、耕すのです。 どんな土地だから蒔く、蒔かない、ではなく、たとえ石地でも、どのようなところにも惜しみなく蒔くのです。その種は御言葉です。御言葉ですから、キリストだったのです。クリスマスの出来事は、墓石のような飼い葉桶にキリストが置かれたのです。そしてキリストは宣教しましたが、御言葉を蒔いても蒔いても、人々に受け入れられませんでした。それでも、農夫である神は、100倍の実りを望み見ているのです。その実りは私たち自身であると見ていてくださいます。こんな土地は駄目だと言わずに、惜しみなく注いでくださいます。