2022年1月23日主日礼拝
「良き知らせを告げる」
大石 茉莉 神学生
ローマの信徒への手紙1章1~7節

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 パウロがローマの教会に宛てた手紙の冒頭のメッセージのみことばです。

 パウロはファリサイ派エリートとして、キリスト教徒を異端と考えて先頭に立って迫害していましたが、復活の主イエスとの衝撃的な出会いにより、イエスこそキリスト、救い主であると信じ、それを宣べ伝える伝道者となったのです。この手紙の宛先であるローマの教会はパウロの手によるものではなく、パウロは「初めまして、いずれお訪ねしたいと思っております」ということを伝えるためにこの手紙をしたためました。自己紹介にあたり、パウロは驚くほど、自分のバックボーンを語りません。主イエスとの出会いによって、新しい生を生きる者となった彼は、キリストの福音を宣べ伝える者であることだけを伝えるのが自己紹介として必要だと考え、「キリスト・イエスの僕」「神の福音のために選び出され」「召されて使徒となった」という3つの言葉で自分を語るのです。そして神の福音の使命、つまり、神による救いの喜びの知らせを告げるという使命が与えられたとパウロは言うのです。福音を語るのだという思いが冒頭から込められています。

 2節から6節でパウロは福音のメッセージを語ります。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」であるといいます。主キリスト・イエスに関することは、すでに旧約聖書において神が与えておられた約束が実現したことなのだ、それが福音である、ときっぱりと言い切っています。神の救いの約束は主イエスの十字架の死と復活において実現したのだというのです。そして主イエスこそが救い主キリストである、という喜びの知らせ、福音を伝えたい。そしてそれが神の御心であり、神の大いなる恵みであることを告げ知らせたいのです。 主イエス・キリストは、ダビデの家系の子孫として、私たちが生きるこの世に、人として特定の時を生きてくださり、復活によって、神の子としての力を示された、と言います。私たちを救ってくださる力は、死者の中から復活によって示され、明らかにされたのです。それは死に勝利する力として示されました。死はどんな人間にも定められています。私たちの生の終わりは死であり、その死の支配から逃れることはできません。人間は自らの死に直面した時、その命を治めているのは自分自身ではないことに気付かされます。自らの寿命を、一日たりとも私たち自身では延ばすことはできないのです。自らを主人として生きている人間は、そのことに気付いた時、自分の知らない力によって命が奪われることに恐怖を覚えますが、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みを受けている私たちは、主イエスのご復活によって、肉体の死を超えた先に与えられる、新しい永遠の命があることを信じることができます。そこには希望があります。この力ある神の子、イエス・キリストによる救いの実現、そのことがパウロの語る福音、よき知らせ、のメッセージなのです。

  5節には「信仰による従順へ導くために」という言葉があります。信仰による従順とは神に従うことです。キリスト者は主イエスの弟子としてお従いすることを口にしていますが、主に聞き従わず、神に従順でないことがなんと多いことでしょうか。御心がなりますように、と日々祈りながらも、実は自分の都合に神様を合わせようとしていることが多いことに気付かされます。従順でありたくともできない、愚かで弱い私たちのために、主イエスは私たちでは決してできない神への従順を私たちのために成し遂げて下さいました。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」とフィリピの信徒への手紙2章6節~8節には記されています。

 主イエスの父なる神への従順が、このわたしのための従順だったことを認め、主イエスの従順によって与えられた救いの恵みを信じる事、受け入れる事が私たちに求められているということを、パウロは異邦人含むすべての人たちに向けて招きの言葉として語ります。ローマの人たちだけでなく、私たちもキリスト・イエスのものとなるよう、召されているのです。

 救いを得るふさわしさは何一つ持ち合わせていなくとも、神は恵みによってキリストの元へと呼び集めてくださり、主イエス・キリストの十字架と復活による救いに与らせようとしてくださっています。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」とパウロは私たちのために祈り、福音の喜びを私たちに告げてくれています。