2022年1月2日主日礼拝
「家族がここに」
小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書12章43~50節

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 主の年2022年、最初の礼拝で聞く御言葉は「家族」です。

 家族の形は、血縁関係があるものや、夫婦に代表される血縁関係のない、法的な家族。様々な形があり、一緒に暮らしていくうちに家族になってゆくのでしょう。一方で、家族の関係が壊れる状況もあります。家族のような存在や大切な家族関係から、仲違いや疎遠になることもあります。 

 本日の聖書で、家族の姿をはっきりと主イエスが「ここにある」と示しています。教会は「教会とは何か」と問われたら、いくつか答えがある中で「神の家族」であり、「キリストの体」ですと言うことができます。他の「家族」と呼ばれるものと違うことは、「神がいる家族」だということです。キリストの体であり、神の家族だと言うのは、人が努力してなるのではなく、関係性のものでもなく、キリストによって家族になるのです。そして主イエスは私たちを家族だと言ってくださいます。主が示してくださった「天の父」と祈ること、神を「父よ」と呼ぶ関係性に主イエスによって入れられています。

  汚れた霊が戻ってくる話を一緒に読みました。自分の心の中から悪いものを取り出し、一時的に状態が良くなっても、過去の自分を責めたり、また騙されるのではないかと不安や警戒を持ち、自暴自棄な思いまで連れて悪いものが帰ってきてしまうような状況が思い浮かびます。ベルゼブル論争や、悪霊追い出しの話に続いて語られているのは、心が空っぽのままではいけないと言われているからです。心が満たされていなければならないと言うのです。それに続くように、家族の話が語られます。 私たちには「天の父」、新しく父と呼べる方がいます。神である「天の父の御心を行う人」が私たち家族のあり方だと主は言います。そうであれば心はその父で満たされています。主イエスが教えてくれた家族があるのなら、私たちの帰ってくる場所は教会・神の下にあるのです。失敗をしても、素直になれなくても、自分の戻るべき場所がここあります。

 主イエスはこう言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(11:28)。大きく手を広げ、私たちを迎えようと持っていてくださいます。安心してそこに帰ることができるのです。今の家庭、家族から離れて、教会の家族を大切にすると言うことではありません。私たちが教会からそれぞれに遣わされる場所において、営む家族の上に、力の強い者、特定の人・親が権限を持つのではなく、「神を持つ家族」となるのです。 

 主イエスから心が遠く離れてはいけません。主イエスによる新しい霊に生かされているかどうかが大切です。主イエスは自分の本当の家族は、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と言われます。 主イエスが群衆に話しておられるとき「その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。」。主イエスはその、外に立っている母や兄弟たちの前で「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言います。厳しい言葉であると思われることがあります。しかし、この言葉は母や兄弟たちに対して厳しく突き付けているのではありません。主イエスの周りに集って、その教えを聞いている人々に向けて、あなたたちを家族として迎えたい。そのように主イエスは人々に、そして私たち一人一人に語りかけているのです。母マリアと兄弟たちにとっても、そのような関係は、家族を狭めるのではなく、主イエスによる、神の家族へと招く新しい関係を広げていくものになるはずです。 

 先日のクリスマス礼拝では「日本基督教団信仰告白」、「使徒信条」を皆で声を合わせて告白しました。使徒信条で「公堂の教会」、「聖徒の交わり」これを「信ず」と告白します。 公堂の教会は、「一般の・普遍的」などを意味します。性別も国籍も立場も関係なく、地域も教派も超えた、同じキリストの教会である、公堂の教会です。「聖徒の交わり」は、聖なるもの・聖別された者の交わりです。聖餐式は聖なるもの・キリストを味わい、私たちの罪が赦されたことを思い起こします。聖餐の食卓は共同体の証であり、キリストによる交わりです。 

 家族になると言っても、一人一人の固有性があります。信仰者として一致するということも聞こえは良くても簡単にはできません。教会の中で言い争いがあっても、苦手に思う人がいても、信仰が同じとか、家族のように心の内を、本音を語り合えるとか、そういうことではなく、一致はただ一つ「キリストによって」です。だから、教会の中で言葉を交わさなくても、相手の名前を知らなくても、まだ会ったことのない間柄、他の教会の人であっても、神の御心を行う者は神の家族なのです。