2022年1月16日 主日礼拝
「天の国について」
小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書13章24~43節

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 「毒麦」のたとえ、と言われる聖書の箇所を読みました。
「ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。」。麦が実ると、麦に毒麦が混ざっているので僕たちは驚きます。僕たちは、主人に「抜き集めておきましょうか」と尋ねます。しかし、主人の答えは意外なもので「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。人が毒麦を取り除こうとするとき、他の麦も抜いてしまうかもしれない。だからそのままにしておきなさいと主人は言います。

 主イエスはたとえの説明をします。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。」「毒を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことである。」。麦が人であるのですから、取り除くための判断は、「あなたたちにはできない」ということでもあるのです。人が人を判断すること、裁くことは難しいことです。畑は世界。そしてこの言葉が響いているのは世界の中にある教会の中で、このたとえは響き、語り続けられていますから、教会の中にも、毒麦を抜かなければならないという考えがあるのです。私たちに毒麦を見分ける力があるのでしょうか?それは、最後の審判の時に、神が成さるものだと記されています。私たちは判断のために気を張り、毒麦に目を光らせていなくて良いのです。

 それでも、「教会の中の毒麦をどうしたらよいのだろうか?」そう思う時、「自分は良い麦だ」と思っているのです。それは聖書に何度も出てくるファリサイ派に象徴される考えでもあるのです。ファリサイ派の人々には、主イエスの教えも、救いも、要らないものでした。 人が判断して、毒麦を抜こうとすると、畑はぼろぼろになってしまうと思います。互いに批判し、裁き、抜き合い、畑に麦はもう残っていない事でしょう。主人である神は、毒麦と一緒に大切な麦たちに少しも傷ついて欲しくないのです。

  毒麦のたとえ話はマタイ福音書にしかない記事です。審判の時に「炉の中に投げ込ませる」、ということをはっきりと書きます。教会で罪の話しや、最後に審判があることを語らない方が人には聞き入れやすく、当時も、また現代でも反発を受けないはずです。それでもはっきりとマタイは語ります。それは今、共にいる主イエスの復活の出来事があるから語ることができるのです。主イエスの勝利と父なる神の世界を支配する力があるから語ることのできるものなのです。そうでなければ、力には勝てないということ、この世の力、権力、財力が人を支配することになるからです。それだけの思いをもって厳しいことを語っているのです。それは、正しい方へと向き直ってほしい神の思いがはっきりと示されているからです。天の国は、私たちの希望でありますが、何よりも神が希望を持って私たちを待っておられるところなのです。毒麦をすぐにでも抜いてしまうのではなく、忍耐して、希望をもって待っておられるのです。

  たとえばなしで天の国について話す理由が書かれています。「隠されていたことを告げる」ため。神が共にいるということをどう説明できるでしょうか。天の国とは何なのか、と問われても説明できるでしょうか。聖書が書かれた時代、聖書は聞くものでした。聖書を一人一冊など持っていませんでした。だから、主イエスが語られる言葉を皆よく聞いていました。1サトンは約13リットルですので、3サトンは約39リットル。当時では一度に焼けるパンの最大量だったようです。そこにパン種を混ぜて焼くと大きく膨らみ、100人分以上のパンになる。驚くべき分量になる。からし種をまくことも、パン種を粉とまぜることも、その結果は鳥が巣を作れるほどの大きな木になり、パンは家族を1月養えるほどになるのです。耳を疑うような驚きの言葉です。天の国がこのようであるのなら、驚くべきことであり、その影響力はとても大きなものだということです。

 主イエスは、丁寧に天の国についてじっくり教え、話すのではなく、たとえ話で語られたのは、天の国の多様さ、そして、それを司る神の秘儀、奥義という、人の理解を超えたものがあるからです。人が立ち止まって、「天の国って何なのだろうか?」、「こういう人は入れるの?入れないの?」、「良い麦でいないといけないの?」と、抜け道を探したりして欲しいわけではないからでしょう。神の国の本質は、隠されているということです。

 土の中に隠された、からし種。パン生地に隠されたパン種。天の国はすぐ目に付くようなものではなく、よく探さなくてはならないもの。物事の表面下で、発見され獲得されるのを待っているものなのです。そしてそれは、難しいことではなく、私たちの日常のなかに散りばめられているのです。 

 人々が喜びを分かち合うクリスマスに始まり、地域の教会で毎週語られ、畑で耕されて与えられた食卓、それぞれの家の食卓の中にあるパン。天の国は近くに隠されているのです。いつも私たちのそばにあるのです。