2021年12月19日クリスマス礼拝
「思いを超えるクリスマス」
石丸 泰信 先生
マタイによる福音書 1章18~25節

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 「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。クリスマスにイエスという方がお生まれになったこと、それが、私たちにとって何を意味するのかを聖書はこのように語ります。「インマヌエル」。翻訳すれば「神は我々と共におられる」。この言葉は、いつも聞くべき言葉です。旧約聖書の人々は何度も、この言葉を聞いてきました。旧約の民・イサクが飢饉の時、一人、その土地に残らなければならなかったとき、この言葉を聞きました。ヤコブが一人、家を出なければならなくなったときも、モーセやヨシュアが立てられたときも、神は繰り返し語りました。「わたしはあなたと共にいる」。彼らは新しい出来事に置かれたとき、繰り返し、この言葉を聞いたのです。それが今日、あなたがたのためにと言って、この言葉が贈られます。イエス・キリストの誕生によって「神は我々と共におられる」。そんな気しませんと思う方もあるかも知れません。けれども、友情や愛情も目には見えないけれども確かにあるように、神はわたしたちと共にいます。

 けれども、ヨセフにとって「インマヌエル」が告げられた日は喜ばしい日ではありませんでした。婚約者のマリアが身ごもったこと、それは聖霊によって宿った子だと聞いたからです。ヨセフは悩みの果てに、信じられない、結婚は辞めるしかないと思いました。離縁の理由を明らかにすれば、マリアは町から受け入れられません。だから「マリアを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした」のです。けれども、結果としてヨセフはマリアのお腹の子の父となることを決心する。どうしてか。天使が現れたとしか考えられないことが起こったからです。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」という声を夢で聞き、それを信じ決心をしたのです。このヨセフによって、クリスマスは出来事になりました。

 天使の介入以前のヨセフの悩み、もしも誰かに相談したとしても「君の決断は正しいと思うよ。表ざたにして彼女を悪者にするのではなく、非難を引き受けるのでしょう」というやり取りをするのではないかと思います。けれども、天使の介入によってヨセフの決断が変わったからこそ思うのですが、わたしたちの考える「正しい」ことというのは自分の手を伸ばせる範囲でしかないのではないかと思います。

 授業で「Calling(神の召し、召命)」の話をするときがあります。「自分のやりたいことを仕事にする」という思いの対極にあるのがCalling。自分が、ではなく、神が「しなさい」と呼んでいる声に応える生き方。それを考えてもらいます。時に「自分の進みたいようにするのが良いのでは?」と言われることがあります。その通りです。けれども、その時、自分の手が届くところでしか考えていないのではないかと思うのです。その時、いつもコタツの話をします。わたしは「自分のやりたいことコタツ理論」と呼んでいるのですが、コタツに入るとき、セッティングをします。テレビのリモコン、ミカン、今ならスマホでしょうか。全てを手の届くところに用意します。そして、もうコタツから出られなくなります。これと同じように、自分のやりたいことというのは、今のコタツの生活を変えないで済む範囲の中で考えてしまうのではないかと思います。それに対して「コタツから出ろ!」と言うのがCallingです。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセも経験した声です。もちろん寒くて不安になります。けれども、その時に声を聞くのです。「わたしはあなたと共にいる」。

 ヨセフの正しさも自分が変わらなくて良い、手の届くところでの正しさでした。それを人は正しいと言うかも知れません。けれども、そのヨセフにCallingが掛かる。それが天使の介入でした。彼は去ることを考えていました。けれども、天使の声は担うことを求めるのです。マリアと一緒に担いなさい、と。どうしてでしょう。彼がイエスの父になるからです。このお腹の子はあなたを見て育つ。信じて担う人を見て育つからです。担うことは愛することです。自分が下に潜ります。疲れます。担うことは与えること、与えることは愛することです。ヨセフは人々の視線からマリアを守ろうとしました。しかし、天使は愛しなさいと言われたのです。コタツから出て今までとは違う疲れを担いなさい。やがて、イエスはあなたの姿を通して愛を知るからです。

 神は独り子を、この世界に与えてしまいました。ヨセフも自分の正しさを捨てて自分を与えてしまいました。それが愛すること、それがクリスマスです。けれども、それでお仕舞いではありません。始まりです。ある神学者は言います。「完成とは、愛のことである。しかしながら、この世における完成のしるしは十字架である。十字架は、この世で成就した愛が歩んでいかなければならない道であり、繰り返し歩んでいくことになる道である」。クリスマスは喜びです。しかし、そこからイースターへの歩みが始まります。主イエスの生涯は神が人とこの世界を愛したように、ヨセフがマリアを愛したように、主イエスが罪人を愛する歩みです。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。愛されるはずのない人が愛されるって救いです。けれども、そのために痛む痛みがあると聖書は言うのです。愛は痛むことです。担って自分の肩がすり切れることです。そして、そういう道を、愛する者は繰り返し歩んでいくことになるのです。 

 幼子がヨセフの姿を見て歩んだように、わたしたちも、主イエスの姿を見て歩みます。そうすると、きっと繰り返し、肩を擦りむく歩みになってしまうのだと思います。誰かの重荷を担う歩み、下に潜る歩み。しかし、その時に声を聞くのです。「わたしはあなたと共に」担っている。