主日礼拝2021年12月5日
「神の略奪」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書12章22~32節

[録音]

[録画]

 「ベルゼブル論争」と呼ばれる箇所です。「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」を主が癒されました。その様子を見て「この人はダビデの子ではないだろうか」と、待ち望んでいた救い主ではないかと喜ぶ人々と、悪霊の仲間だと非難するファリサイ派の人々がいました。

 「悪霊」や「汚れた霊」は人を縛り付け不自由にするものとして聖書に出てきます。何かしらの状態の人を見て、悪霊に取りつかれていると人々は考えていました。 現代では何かしらの症状があれば病院に行き、原因を探すでしょう。しかし、身の回りで不幸なことや、都合の悪い事が続くと、何か自分に何悪いものがついているのでは?と、厄払いをする習慣もあります。「悪霊」という言葉を現代では使わなくとも、得体の知れない何かに不安になることはあると思います。主イエスの時代、身に降りかかる悪い事は全て、悪霊の仕業と考えました。

 「悪霊」はギリシア語で「ダイモニオン」と言い、元来悪い意味はありませんでした。人の力や意志を超えて働く「運命を司る力」が「ダイモニオン」でした。しかし、人の力の及ばない「運命」に対して、悪く考えてしまう。そして悪霊によるものと考え、ダイモニオンが理解されるようになります。 主イエスがこの時追い出したのは、人々の中にある、全てを「悪」とする考えでした。身に起きることは必ずしも、悪霊から来ていて、それらにあなたの人生が支配されているのではないこと、身に起きることは、神の出来事として意味ある恵みの出来事として捉え直すためです。「目が見えず口の利けない人」は悪魔の支配下にあるのではありません。それを示すため、主イエスはこの人を変えられるのです。運命を、そして悪霊を支配しておられるのは誰か。それまで人々は、悪魔だと思っていました。しかし、そうではありません。主がこの人を癒すと「人々は驚いた」。「驚いた」というのは、「追い出す」という意味があります。驚くことで、これまでの思いが追い出され、運命を司ると思っていた、ダイモニオンが支配する心を追い出されたのです。

  けれども、それを認められない者が「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言います。 それに対し主は、「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」。ファリサイ派の人々は何も言い返せません。彼らの中にも、霊媒師のような人たちがいて、悪霊払いをしていたからです。

  主は言います「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。そして、このような形でそれは始まっています。「まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」。これは強盗の話です。 私たちが様々なもので自分を守ろうとします。鍵やセキュリティーを用意します。 しかしそれを超える出来事が、悪霊(ダイモニオン)によって打ち破られることがあります。信仰においてもそうです。強い誘惑、試練が襲い掛かってきます。たちまちやられてしまい、自分の中が占拠されてしまいます。肝心のそこに住む人、自分という家の中に、主イエスに住んでいただかない限り、本当の平安は訪れないのです。強い人を縛り上げ、押し入り、家財道具を奪い取る。その家を略奪するのは主イエスです。「あなたはわたしのもの」とおっしゃる神が、悪に心を支配されている私たちを取り返すため、主イエスが略奪すると言うのです。そして、「そのわたしに味方しなさい」神を信じる者(キリスト者)が敵対してはならないのです。 主イエスは「神の霊で悪霊を追い出している」と言います。それは神の国が来ていることのしるしです。気持ちの持ちようで、「ここに来ているのだ」と思うのではなく、私たちのところに、イエス・キリストご自身がおられる。そのことによって、「もう来ている」と言うのです。今も私たちにこの言葉が響き、語られるのは、主イエスは私たちのために十字架にかけられ、死にて葬られ、復活し、復活された主は今も私たちと共にいるからです。 

 私たちにとっての幸い、安心は「神の言葉を聞き、それを守る」ことにあるのだとマタイ福音書はこれまでの多くの教えの中で語ってきました。神の言葉が見える姿になって来られたのが、イエス・キリストです。その方を迎え入れること、それが幸いであり、平安です。死にも打ち勝たれた方が、この私という家の中に、強力な味方として住んでくださり、どんな攻撃からも、脅かしからも守ってくださるというのです。それを拒む理由があるでしょうか。悪の支配に恐れている心を略奪してもらいましょう。