2021年12月26日主日礼拝
「しるしを見て、何を思うか」
小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 12章38~42節

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 「しるし」を見せることや、求めることは日常に沢山あります。頼んでいた品物の受け取りに行けば、その証明となる紙を見せる。愛するしるしに贈り物をする。自分が行ったしるしを見せる。聖書で「しるし」と聞くと不信仰の話のように思うかもしれませんがそういうことばかりを現わしているのではありません。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが…。」(1コリント1:22)と聖書にあります。しるしを求める事はユダヤ人の特色とも言えます。旧約聖書にも多くのしるしが与えられ、預言者たちは背後に神の力があることをしるしによって示しました。マタイ福音書の書き方も、奇跡行為や癒しを行う主イエスの姿を見て、主イエスの背後に働く力に人々は驚きます。しかし、今日の話は、信じるためにしるしを見たいという思いよりも、信じないためにしるしを見せろと言っているのです。

 宗教家たちは主イエスに敵対していました。主イエスに「あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心に溢れていることが出てくるのである。」(12:.34)と言われ、ファリサイ派の人々は「それならば、神から遣わされている証拠を見たい」と言い出したのです。きっと何を見ても信じはしないでしょう。しるしを見せられて明らかになってしまうのは、「自分の間違い」です。自分自身の信じてきたもの、行いを否定されるようなことになります。だから認めることができません。

 「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も、三日三晩、大地の中にいることになる」。旧約聖書のヨナ書で、神の命令から逃げていた預言者ヨナは、海の中に放り出され、沈んで行きます。神は大きな魚に命じて、海底に沈んでゆくヨナを飲み込ませます。ヨナは魚の腹の中に三日三晩いました。そして海岸に打ち上げられました。ヨナは魚の腹の中で、感謝の祈りを捧げました(ヨナ2:1-11)。ヨナは神から離れどんどん下へと降っていき、とうとう陰府(よみ)にまで降りました。そこから助けることができるのは神だけです。魚から吐き出されて、陸地に上がった時に感謝したのではなく、魚の腹の中から、神に感謝の祈りをします。これが神の救いだとわかったからです。主イエスも「人の子も、三日三晩、大地の中にいることになる。」と言っているように十字架で処刑され、陰府に降ります。けれども、死者の中から主イエスは引き上げられます。それによってしか、神によってでしか、主イエスが救い主であると証明される事は無いのです。

 私たちの求める、救いの方法や、ファリサイ派の人々の言い方は「しるしを見たら、信じよう」というものです。主体が「私」なのです。しかし神を信じるとき、「私は神を信じる」と、主体が「神」に変わるのです。主イエスが十字架に掛けられた時、その姿を見た人々は、主イエスに向かって、「メシアならば十字架から降りてみせろ」、「自分を救う奇跡を起こしてみろ」と言いました。「そうしたら、認めてやる。」、「救い主かどうか、私が合否を決めよう。」と、自分自身がその判断をするのです。それは私たちの祈りの中にもあります。「祈りが聞かれた。だから信じよう。」、「祈りが聞かれなかった。」、「神様が聞いてくれた。これは恵みだ。」。そうした思いを誰しもする時があると思いますし、否定するのではありません。しかし、信じて待つことが必要であり、思いがけないしるしを見た時、どのように受け止めることができるか、問われてるのです。 

 クリスマスは小さく起きた、大きな救いの出来事でした。羊飼いたちは小さな男の子を見て、どうして喜ぶことができたのか。それは「しるし」の意味を知っていたからです。どうしてクリスマスの出来事を人々は気づかなかったか。それは、メシアは自分のイメージ通りに来るはずだと思っていたからです。私たちも、思いがけないしるしを見て、「いやいや、そんなはずはない」と思わずにはいられないかもしれません。 ヨナが海の深い底へと落ちていく中で、魚に食べられた事は、一見望みの途絶えた終わりに思えるようなことですが、神の救いと信じ、感謝の祈りを捧げました。真っ暗闇で、先の見えない中に居ながら、神の救いを信じていたのです。

  2021年の歩みを振り返るとき、まだ途上にあって、行く末が分からない事もあると思いますが、「これが神の備えだったのだ」と気づくことや、「なぜ大変な思いをして私が…」と思っていたことが、「このためだったのだ」と知ることがあります。思いがけない形で差し出された神の御手だったと気づくことがあると思います。神と向き合う時が与えられているのです。神が成された救いの御業に信頼して歩みましょう。