主日礼拝2021年12月12日
「言葉に表れる真実」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書12章33~37節

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  「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい」。私たちは日々の中で、どのような実を実らせているでしょうか。

 教会の会議では、積み上げることのできる言葉を選んで話し合いたいと思っています。けれども、考えが狭くなるとき、感情的になることもあるでしょう。相手を責めてしまうことも起こり得ます。家族との関係の中ではどのような実がなるか。高齢になった親との関係、小さな子ども。自分の思うペースで動いてくれない時、自分の生活ペースを崩して相手に合わせなくてはならない時、弱い立場の相手の気持ちを踏みにじるような態度、返事をしてしまった経験はないでしょうか。本当は、「ありがとう」と言い合える関係を築いてゆきたいのに、尊重し合える言葉をかけたいのにできなくなることがあります。

  「人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである」。自分の語る「言葉」に心の内が表れるのです。12章からのやり取りには、ファリサイ派の人々が出てきます。彼らは悪いことは言ってなかった。華やかな奇跡行為や教えに飛びつかなかっただけです。それは決して悪いことではありません。しかし後に、偽証して主イエスを十字架につけます。その時、出てきたものは妬みです。「倉」から妬みを取り出しているのです。 当然ながら、私たちは、どのような言葉を語るか、ということによくよく気をつけています。気を付けているからこそ、私たちは仮面を被ることも得意だと思います。相手を傷つけないように、自分の本心には蓋をする。相手のために努力しているのに、だんだん、その「倉」に納めているものが苦しくなってくる。決して責められるようなことはしていない。けれども、心に自分の思いが、もやもやと溜まってしまうでしょう。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのです。良い言葉は、良い心(倉)から出てきます。「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出」すのです。先週の聖書箇所には、主イエスが私たちの心の内を支配するものを追い出し、奪い取る話がされました(12:29)。そうして、「良い木」である主イエスに繋がるのです。 実の話は、マタイ福音書7章にも出てきました。そこでは、偽預言者を警戒し、あなたがたはその実で見分けるのだ、と主イエスは言います。私たちは花に目が行きます。しかし花は枯れていき、その後の実がどうなるのか。花に惑わされるのではなく、踏みとどまり、待って、見続なくてはなりません。 ある人は、これらの実の話は「十字架から復活のプロセス」であると言いました。主イエスの十字架の苦しみがあって、死がある。そこから復活する。復活を見るまでは判断してはいけないと。十字架の苦しみと死、そして復活を見るまでは、真実ではないのです。「良い木」に繋がりっている実は、真実を語る実です。真実とは、奇跡行為のような、花が咲くようなことばかりに目が向いてはいません。そこだけで真実の実は成らず、十字架と復活を信じ語ること。良い実を実らせるのは、十字架と復活の真実です。 

 それは、主イエスのそばに居なければ見ることができないのです。主イエスの十字架の苦しみの時、弟子たちは逃げ出しました。恐れと、何もできないという思いから逃げ出したのかもしれません。しかし、女性たちは立ち去りませんでした。恐れも、不安もあったでしょう。しかし、主を愛していたから、そばを離れることはできなかったのです。何かできることが無くても、力になれなくても、離れることができない。そうして、この女性たちは最初に十字架と復活を目撃していくのです。 私たちが主イエスと共にありたい、繋がっていたいと思うのは、そのことで何かできるからでしょうか。私たちが主イエスと共にいるのは、主が私たちを愛してくださり、私たちも愛しているからです。繋がることに必要なのは愛です。私がどんなに役に立たなくても、無意味でも、それでも側にいます。愛しているから。その時、私たちは、真実な言葉を与えられます。実りを与えられます。

  神の救いの業が「すぐに」ではなかったように、救い主の誕生も「すぐに」ではなく、待つ時間が必要でした。その間、ヨセフとマリアは不安もあったでしょう。結婚前のマリアの抱えたものは、周りの人々から見れば、疑惑の実でした。けれども、苦しくも信じて待つ時を経て、救い主の誕生という実りを見ました。 「アドベントクランツに」というこどもさんびかがあります。その歌詞は「まことの光 イエスさまのお誕生を みんなが待っています みんなが待っています」。まことの光、希望の光は私たちの中から生まれるのではなく、やって来るのです。アドベントの時、向かってくる主イエスによってもたらされる真実を迎えましょう。