礼拝説教4月25日

「分かれ道」
マタイによる福音書7章13ー24節
小松 美樹 伝道師

[録画]


 5章から続く山上の説教の終わりに近づいてきました。山上の教えに出てくる主イエスの言葉は、現代でも親しまれているものがいくつかありました。「狭き門」という言葉も耳にしたことのある言葉です。けれどもこの言葉は、現代の一般に使われるような、受験や就職などを指して、入りたい人が多くて(結果的に)狭い門とか、注目が集まり人気があり、人が殺到して狭くなる門のことを言うのではありません。聖書の「狭い門」とは、一人しか通れない道。一人だけが通ることのできる狭い門です。寂しくて、辛そうで、人気がないものです。

 

 自分の目の前に二つの道があって、どちらに行こうかと思うとき、一方は広くのびのびとしている道。安心して行こうと思えるような道。もう一方は薔薇のような道に見えます。狭い門へと続く道で、見るからに快適な道ではなく、くぐらなければいけないし、狭いから体がぶつかり痛いし、通りたくない。やりたくない道。誰もが憧れたり望むような、「狭き門」とは違い、誰もしたくないことのために、自分がやらなければならない道。誰も気がつかないようなことをやる。そういう道を進むのです。けれどもその道を進んでいく人がいます。「え、どうしていくの?」と聞くと、「私がやらなければいけないの」とその人は言います。見ている人には「なぜ?」という思いが浮かぶでしょう。

 

 教会の掃除の奉仕を毎週やってくれる方がいます。その人を知る近所人の目には、「なぜ家のことの他にも掃除に行くの?しかも無給で。」「どうしてやるの?」と映るでしょう。クリスチャンだからとか、教会のメンバーシップがあるからとも言えるかもしれません。しかし、何よりも「これは神が私に与えた務め」そう受け取っているからその方は進んで行くのだと思います。「疲れているからやらない」ではなく、「疲れている。けれども私がやろう。」そのようにして道を進まれる方がいるのです。

 

 仕事でも家庭でも、やりたくなくても、やらなければならない時がある。家族のための料理をする、お弁当を毎日のように用意する。教会のための奉仕をすることがある。なぜそれをやるのか。耐えうることができるのか。それは神の召し(Calling)があるからです。

 

 狭き門を行くというのは、時に「なぜ自分がやらなければならないのだろう」と、痛みを伴います。また周りの期待、親の期待を裏切ることもあります。何よりも自分の思いを払いのけることが必要になることだと思います。人に喜ばれることなら率先してできるかもしれません。けれども、「なぜ私が?」と思うことに向かわなければならない時、そこにこそ、命に繋がる道があるのだと主イエスは言います。どうして命に繋がるのか。自分が思い描くのとは違う道かもしれないけれど、神から託されている自分の使命のために歩み始めるからです。人から理解されない選択かもしれません。けれども、「あなたは良い道を選んでいる」そう神が言ってくださっているのです。

 

 この私を用いようとされる神がいるから、私たちは困難にも、予想しなかった未来にも、理不尽な世の中にも、耐えうることができるのです。

 

 この選択は人生の最後、物事のゴールにだけあるのではなく、狭い門は、常に私たちの目の前にあります。教会の奉仕も、介護をすることも、仕事を引き受けることも、自分自身に起こる人生の出来事に対しても、「私がやらなければならないのだ」と受け止めるとき、それまでの自分のための時間の使い方が変わってくると思います。奏楽のためにオルガン練習をする奉仕者は、空いた時間を休むのではなく、自分の務めが終わってから休憩できるはずの時間を準備のために使います。どうして練習しているの?少し休んだらいいのに、と家族や友人に言われるかもしれません。しかし、その方々は言うでしょう。「疲れているからやらない。」ではなく、「疲れているけれどもやる。」と。「これは私がやらなければならないことだから。」と嫌々ではなく「自分が捧げたい。」そういう思いをもって、その時間を生きるようになるのです。

 

 他の人には見出せないものでしょう。なぜなら神の召しとは「あなたに」と神が示すものだからです。

 

 狭い道へと行かない理由はいくらでもある。けれども私が担おう。その行動は、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(7:12)を実行することであり、平和を実現する人々となり5:9)、神と共にあって幸いに生きる道なのです。