礼拝説教4月18日

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」
マタイによる福音書7章7ー12 節
石丸 泰信 先生

[録画]

 今日の主イエスの説教には世界的に知られている言葉が多く登場します。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。この言葉は「黄金律」(ゴールデン・ルール)と呼ばれています。すべての人に当てはまる倫理的な教えだからです。
 次の言葉も、よく知られている言葉であると思います。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。これを聞いて「あの時、もっと頑張れば良かった」という過去を思い出す人もあるかも知れません。そういうわたしたちに向かって、聖書は「叩きなさい」「求めなさい」と語りかけます。そもそも、どうして人は、もう駄目だ、もう進めないと、先のことが分かるのでしょう。本当のところは明日のことが分かるのは神さまだけです。それなのに、いつの間にか自分が神のようになって分かった気になってしまう。そのわたしたちに聖書は「神になるな、人になれ」。「まだ途上だ、続けなさい」と言っているのだと思います。
 そして、この「求めなさい・・・」という文章と「黄金律」の言葉は「だから」という言葉で繋がっています。とても不思議な繋がりです。7-11節までは「求めなさい」という言葉の根拠として「天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と言っていました。けれども12節になると「・・・しなさい」。謂わば、与えなさいという命じをしているのです。そのまま読むと「天の父は、求めるあなたがたに良いものを与えてくださる。だから、あなた方も天の父のようになって、してもらいたいと思うことは何でも、人にしなさい」となります。変な繋がりです。まるで条件のように聞こえます。変な繋がりの言葉は「主の祈り」にもあります。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」。これも条件のように聞こえてしまう祈りです。「あの人のことを赦します。だから、神さま、わたしたちの罪をも赦してください」。今日の箇所も「して欲しいことを他の人にもしますから、わたしの求めるものを与えてください」。こう読むとスムーズです。けれども、条件として言っているのではないと思います。
 主イエスにとって、求めることと与えること。赦されることと赦すことは同じです。わたしたちは赦されることはプラス符号で、赦すことはマイナス符号が付くことと感じてしまいますが、そのどちらもあなたに必要なことなのだと主は言っている訳です。
 「人にしてもらいたいと思うことは・・・」。最も人にしてもらいたいと思うことは「赦し」です。赦しは失敗の免除に留まりません。「赦し」とは、受け入れられること、愛されること、自分をそのまま受け止めてもらうことです、有る映画の中に印象的な台詞があります。実家に帰ってきた息子が言います。「母さんは口うるさいんだよ。いつも僕を直そうとする。自分は欠陥品か?!自分らしくここに居ちゃ駄目か!?」この母親は息子の危なっかしいところが目に付きます。だから、つい言ってしまう。けれども息子は思うのです。「母さんは僕を誰のようにしようとするのか」。自分をそのまま受け入れてくれるのは「救い」です。
 けれども、それが「あなたがたも人にしなさい」に繋がっているのです。「赦すことは良いことだから、相手にも同じようにしなさい」という読み方でももちろん良いですが、突然の命令にわたしは引っかかってしまいます。「求めなさい・・・そうすれば与えられる」で始まり、それを「だから」で繋ぐのであれば、命令では無く「加えて、このことも求めなさい」で終わったら良い。その「このこと」というのが「赦すこと」です。人にされて一番嬉しいことが赦すこと。だから、人にもしなさい、と言うところの「相手を赦すこと」を「求めなさい」。そうすれば、必ず叶うから。そういう繋がりなのだと思います。
 なぜ、赦すことを求めるのか。相手を赦すことも「救い」だからです。「恨まれ者はよく眠る」という言葉があります。嫌なことをして誰かに憎まれている人は夜ぐっすり眠っているのに、その人を憎んでいるわたしはイライラして眠れない。悪いのは相手。それなのに眠れないのはわたし。なんだか変な話です。どうしてでしょう。相手を赦せていないから。だから苦しんでいるのです。赦すとは相手に優しくすることではありません。聖書のいう「赦す」という言葉は「手放す」という意味があります。相手のことを赦さない!と言って掴んで離さなかった、その手を離すのです。掴んで離さないとき、それは同時に、自分自身も、その憎しみの中に縛り付けていることになります。だから苦しいのです。だから、相手を赦して自分がその鎖の縛りから自由になることは救いだと聖書は言うのです。
 だから、自分も相手を赦すことができる。そのことを神に求め続けなさい。もちろん、簡単には手放すことなんてできません。赦したくない。しかし、主は、あなたに良いものを与えようとしていると言います。大丈夫だから手放してご覧と言います。神のようになって無理だと決めつけるのではなく、ゆっくりとでも。そして、これこそ「律法と預言者」(=聖書)と主は言います。これが聖書の伝えたいことだということです。