礼拝説教4月11日

「目に中の丸太に気づかない」
マタイによる福音書 7章1ー6節
小松 美樹 伝道師

[録画]

 マタイによる福音書の山上の説教の中にある教えを読みました。
  「人を裁くな」と言われます。私たちは日々様々なものを自分で判断して生活しています。良いもの悪いもの、好き嫌い、物事だけではなくて人に対してもそうだと思います。そうして人の非を裁くことを知らず知らずにしているのだと思います。そのような私たちに対して「人を裁くなと」言われます。「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤りで量り与えられる。」その通りだと思います。「あの人はあんな風に人のことを言う」。そう話す人に対して送られる視線は、「あなたはできているのね?」ということの裏返しであると思うからです。
  他の人の目の中にある小さなおが屑には気がつくというのは、人に対してイライラしたり、気になって仕方がないことがある状況です。それに対して「自分の目の中の丸太に気づかないのか」と言われているのです。衝撃的なことであると思います。そして丸太が取り除けられたらば、はっきり見えるようになると言うのです。目の中に丸太があると言う事は本来の目の機能を失っているのと同じです。正しい判断もできないでしょう。   「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって」とは、何がはっきり見えるようになるのか。それは自分の目から取り除かれた大きな丸太であり、自分の罪が目の前にはっきりと見えるのだと思います。こんなものがあったのかと驚くものだと思います。おそらく、それを見たら人のおが屑のことなんて何も言えなくなってしまうでしょう。
  しかしこの主イエスの教えは、「そんな人が、他人のことをとやかく言ってはいけない」とか、自分の丸太・罪に気がついていなかったこと、それなのに他の人を責めようとしていたこと、そのことを責めているのではありません。主イエスは、人は自分の目の中の丸太には気づかないのだと言います。人には一切丸太は見えないということです。もしかしたら自分の罪をわかっているような気がしていたかもしれません。しかし、それは本当のところはわかっていないと言われているのです。人には絶対に気がつかないものであるのであるから、「相手を思いやらない発言をしたな」と思ったとき、「相手を傷つけてしまった。」そう思った時、自分の罪に気がついたと思う時、それは気づく程度のものでしかないのです。気づかない程の丸太のその大きさは、イエス・キリストが死ななければならないほど大きな罪でした。それが私の罪の大きさであり、丸太の大きさなのです。
  イエス・キリストが死ななければならなかったのは、私たち自身が罪人でありながら、その罪人のまま赦されるためです。
  わからないなりに信じて受け止めるのならば、私たちのこの教えに対する読み方は変わってくると思います。どうやら私たちには目の中に丸太があるらしい。わからないけれど、自分では気づくことができないけれど、人のおが屑は見えます。裁くなと言われますから、そのことを信じて、おが屑を赦します。私たちが赦したように、私たちの罪も赦してください。
  人の罪の話をしている時、人のおが屑の話をしている時、自分自身の罪は見えなくなってしまうのです。人のおが屑を見ていると、まるで自分自身には丸太など無いものと思ってしまうのです。
  「豚に真珠」のことわざは6節の言葉に由来します。価値のわからないものに価値あるものを与えても無駄だという意味です。けれども主イエスは私たちにこの教えを伝えてくださっています。自分の罪に気がつかないから放っておくのではなく、「あなた方には信じてこの教えを渡すよ」とこのことを言っているのです。あなたに期待をしているからこそ教えるのだということです。
  「人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである。」。私たちを裁くのは神です。小さなおが屑をも赦さない私たちを、神は同じ秤りで量ると言うのです。けれども、自分の目の中に丸太があるのにも気づかず、人のおが屑を裁こうとする私たちに、目の中の丸太を認めなさいと言います。そのことによって、神に赦されたあまりにも大きな罪を知り、この小さなおが屑をなんとか赦しますから、丸太のような私たちの罪をも赦してください。そう祈る者に変えられていくのだと思います。
  自分の判断や基準の前に立つのではなく神の前に立ち、人を裁く・裁かれる関係から、神から赦されていると者としての関係を築いて歩みたいと思います。