礼拝説教4月4日

「わたしは主を見ました」
マタイによる福音書20章1ー18
小松 美樹 伝道師

[録画]

イースターおめでとうございます。>

 教会はイエス・キリストのご復活の出来事であるイースターから、2000年経った今日まで日曜日の朝に、喜びと驚きを持って、そして主に呼ばれて集まっています。主イエスがご復活された喜びと、主イエスを復活させた神が生きておられる、そのことがはっきりと示されたのがイースターです。主イエスの十字架の死によって私たちの罪が赦された喜び。死が全ての終わりではないということが示された喜び。それは全て父なる神が生きて働いておられるから起こる出来事です。

   復活された朝の出来事の聖書を読みました。十字架で死んだ主イエスの墓を訪ねたマリアが描かれています。遺体があるはずの墓の中が空になっているのを見つけました。大切な師が殺された悲しみに加え、遺体が持ち去られたと思う現実に、墓の前で泣いていました。天使に声をかけられても、ご復活された主イエスに声をかけられても、気が付くことなく、悲しみに覆われていました。しかし主に「マリア」と名を呼ばれると、自分に声をかけ、傍に来てくださっている、そして名を呼んだこの方が主イエスであるとわかりました。私たちは復活の主に出会っていても、それが主イエスであると気づかないでいることがあるのでしょう。悲しみの思いにばかり目を向けてしますのです。天使からの働きかけにも、主イエスからお声をかけられていることも、わからないでいるのです。けれども主は何度でも私たちの名を呼び、墓ではなく、復活の主ご自身の方を向くように語りかけ続けてくれています。私たちはこれまでもそうであったように、これからも、何度も主を見失い、それでも呼びかけてくださる主イエスの方を振り返る経験をするのだと思います。

   そうして生活していく中で、主イエスが私たちに行い続けなさいと言われた「聖餐」があります。主イエスの死を忘れないためです。何のための死であったのか。そこには主イエスの生涯を通して示された「神の愛」があります。礼拝の中で行われる聖餐式は、主イエスの十字架を思い、主の体であるパンと主の血潮であるぶどう液の杯を分かち合う一つの食卓です。キリストの十字架による死によって私たちの罪が赦された、キリストによって一つのものとされた者たちの食卓です。主イエスがこの聖餐の食卓を弟子たちに伝えた時、キリストを裏切る者も一緒にいました。けれども主はその者を追い出してから食事をしたのではありません。裏切る者たちも招くお方です。その方に呼ばれている者たちの食卓であり、キリストの赦しによって私たちは一致しているのです。

   主イエスはこの聖餐式を続けて行いなさいと言われました(ㇽヵ22:14‐)。なぜ続けなければならないのか、はっきり理由は言われていません。しかし、続けていなければ、自分に起きた救いの出来事であることを忘れ、主イエスの命が、体か裂かれるほどの愛を忘れてしまうのだと思います。だからこそ、何度でも繰り返し思い起こし、主イエスの言葉を思い出し、教えを思い出すのです。

 主イエスの復活の命は私たちの希望です。 それがなければ、生きている間に損をするような生き方は馬鹿を見、徳をする生き方に価値があり、人に施すことよりもズルすることの方が良いかのように思えてしまう。神はそこに否を示します。主イエスは神の御心に従い生きたのだと証印を押されたのです。その主イエスに従う者も「正しい」、「良い」としてくださるのです。主イエスは損をするようなことや、人に良いことをして、奉仕して、施して、妬まれて殺されたのではありません。神の御心が示され、主イエスに従う人々がいて、たとえ人々の憎しみに苦しめられようとも、その生き方は何も間違ってはいないのだと神が承認しておられるのです。そのことが正しい人であった主イエスの復活によってはっきり示されました。

 マリアが探していた「わたしの主」のお姿ではありません。マリアの目の前にいるのはマリアの知る主イエスではありません。誰も知らない死を経験し、神によって復活させられたお方です。新しい復活の命の主イエスなのです。「わたしは主を見ました。」その告白によって、神の承認得た新しい命のなかを歩みましょう。