礼拝説教2月28日



「教えてもらった祈り」 石丸泰信 牧師
マタイによる福音書6章5ー15節

 主イエスは祈りを教えてくださいました。その祈りの最初の言葉は「父よ」です。これは単なる呼びかけの言葉ではありません。主は神がわたしたちの父なのだ、という事実を教えてくださったのです。わたしたちが、自分は上手く祈りが出来ないと思うとき、その多くは祈りの作法が分からない、ということを考えているかも知れません。しかし、主は、そこではないと仰います。もしも、どんなに熱心に祈ったとしても、それを聞く方がいなければ、ただの独り言です。そして、実のところ、祈りが聞かれているという確信が、わたしたちにはありません。父なる神は見えない方だからです。それなのに、どうして信じられるのか。それは、わたしたちの祈りが神の御前に届くように、十字架の上で命を捨てた方、イエス・キリストがおられ、その方が教えてくれたからです。あなたをわたしが神の御前に罪のない者にしたから、わたしと同じように心からの信頼を持って祈りなさい、と。主イエスは「主の祈り」を教えてくださったと同時に祈ることを可能にしてくださった方です。だからこそ、わたしたちは祈りが聞かれる確信を持って祈ることが出来ます。 
 そして祈りを教える際、主はこうも言われました。「祈るときにも、あなた方は偽善者のようであってはならない。偽善者たちは人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」「偽善者」とは第一に俳優を意味します。つまり、俳優は大通りに立って芝居したがる。なぜか、人が見てくれるからです。しかし、現代では、むしろ、人前での祈りに抵抗を覚える人の方が多い気がします。けれども、結局は同じ事です。聖書の時代は芝居(祈り)が上手いから人前で芝居したい。現代では芝居(祈り)が下手だから人前では祈りたくない。結局は人の目です。だから、祈りは芝居ではないと主は仰ったのです。そして、こう言われます。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め・・・祈りなさい」。人を閉め出せということです。 
 そして、こう祈りなさいと言われました。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも・・・」。これは現代でも教会やキリスト教学校で祈り続けられている「主の祈り」です。けれども、同時に「世界で最も殉教させられている祈り」だとも言われている祈りでもあります。つまり、思いや意志が入っていない空っぽの祈りにされているということです。
 ある牧師は祈りの時に必要なことは、祈りの言葉の吟味だと言います。なぜか。祈りを習慣や惰性で口にすることが多いからです。自分の願いや賛美の言葉を吟味せずに、本当には願ってもいないことを口にしてしまうことが実に多い、と。また、他の牧師は、こうも言います。時に、祈りがいつも同じパターンになってしまうという相談を受ける。しかし、それは、その人にそれだけの信仰しかないからだ、と。厳しい指摘だと思う反面、その通りと思います。本当は、わたしたちの中には、祈りの言葉なんて無いのです。それなのに、スラスラ、上手い芝居のように祈ろうとする。だから、いつもの習慣の言葉しか出てこず、同じパターンの祈りになってしまうのだと思います。 
 主は、やがて「主の祈り」が空っぽの習慣の祈りになってしまうこと、ご存じだったのだと思います。だからこそ、「主の祈り」を教えてくださいました。実は、この祈りは山上の説教の真ん中にあります。そして、一つひとつの教えが祈りの言葉に対応しています。「御名が崇められますように」と祈るとき、何を思い出すでしょうか。山上の説教の始めには「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」という教えがありました。「御名が崇められますように」という祈りは、わたしたちが「地の塩、世の光」であることを思い出す祈りです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」という祈りは、地の上に生きるわたしたちの常識(殺すな、姦淫するな、誓うな)を、主が「しかし、わたしは言っておく」と言って、天の常識を教えてくださったことを思い出させます。つまり、主の言葉に一つひとつを思い出しながら祈るのが「主の祈り」です。思い出して祈るとき、芝居がかっているでしょうか。きっと人前である事なんて気になりません。気になるのは、父の御心とわたしたちの心の遠い距離です。けれども、主は、あなたに相応しいといって、主の祈りを教えてくださいました。わたしたちの信仰は空っぽです。祈りの言葉なんて出てきません。主の教えてくださった祈りを祈るからこそ、信仰が与えられるのです。