礼拝説教2月21日



「主イエスの祈り」小松美樹伝道師
マタイによる福音書6章5ー15節 

 「主の祈り」は教会の中で大切に守られてきた祈りです。主イエスが教えてくださった、祈りの基本です。基本であるからこそ、何度も立ち返り、大切にされてきました。

 

 マタイによる福音書に記される主の祈りは、5章から続く山上の説教の中心部にあります。教えと祈りが同じ枠の中にあり、教えと一つとなっているものです。

 

 先週から続いて、「祈る時にも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。」とあります。祈りの時間になると、会堂や街角でも祈りをしていました。祈る姿勢は今とは少し違い、上を見上げて手を広げて祈っていました。「偽善者のよう」とは、会堂(今で言う礼拝堂)で、祈ることについて言われているのではありません。神の御前での祈りではなく、人に見てもらおうとして、また良い信仰生活を送っている、などの人に認めてもらうための祈り方をしていることについて言っているのです。

 

 人に見てもらおうとする時、見られている時、わたしたちは神を見ていないのだということです。だから、祈るときは「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」と言われるのです。彼らの真似をして、彼らと等しいものになるなというのです。神に祈るということは、誰にも見せないで、人の目ではなく、神にだけ向かって祈るのです。主イエスは偽善者と一線を引くように「だから、こう祈りなさい。」と言われます。より直訳的には「祈り続けなさい」です。彼らとは違って、こう祈り続けなさいと教えられます。

 

 主イエスの祈りは「天におられるわたしたちの父よ」と「わたしたちの祈り」なのです。

「わたしたち」というのは教会であり、主の祈りは、わたしたち教会の祈りです。 

今までになかった人々との関係の広がりを持ちます。同時に、自分の祈りに固執するのではなく、山上での教えに従いゆくための祈りになるのです。主の祈りは、わたしたちの視点が自分中心から神の視点へと移ります。それは天地がひっくり返る出来事です。

 

 主の祈りは最初の3つは神への祈り。そのあとはわたしたちの願いです。

でも、神頼みや、自分のための願いという、受け身の「こうしてください」という願いではありません。山上の説教での主イエスの教えに従おうとするものの願いです。

 

 それは、わたしたちの常識を超えた教えであり、普通ならば理解できない、損するような教えでもありました。けれども、主イエスによって、神の愛によって、それを願い、祈ることができるようになるのです。主イエスは祈る時、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、祈りなさい」と言われました。窓のない部屋です。そこで扉も閉めて、真っ暗にします。それは人と比べることのないところのことです。本当に暗闇は自分自身の姿も見えません。つまり、自分の願いや悩みばかりに目を向けて祈るのをやめなさいということです。そして、主の祈りを祈ります。

 

 神に祈っていても、神を見ていなかった祈りではなく、山上で教えられた主イエスの姿を思い起こして祈るようになるのです。主イエスは人々に触れて、救いを与えてくださいました。その姿と主イエスを通して教えられた、神の御心へと一心に向かう祈りです。

 

 それは、わたしたちと天をつなぐ祈りです。「そんな祈りは大きすぎて、とてもできません」「自分には祈れない」と自分自身ばかりを見てしまいます。

けれども主イエスをみて祈るのです。

 

 イエス・キリストの救いなどいらないと、存在を否定し、十字架へと追いやったわたしたちは、その主イエスによって、十字架からの神の視点を知りました。十字架のイエス・キリストが、天におられる父なる神と地上のわたしたちをつなぐため、わたしたちに手を差し伸べて待っていてくださいます。自分自身を見つめることから、神を見つめる者になるようにと求められています。

 

 神の御心に従うことは難しくてできないと思わされることばかりかもしれません。

けれども、そうありたい、神の望まれる生き方をしたいと願う者に主イエスはこの祈りを祈り続けないさいと言われます。

 

 教会の中で祈り続けられて来た、主イエスの祈りが、我らの祈りになり、わたしのための祈りであるのです。キリストを通してでなければ出会うことのなかった、教会の幼い子どもから年を重ねた者、信仰の先達者たちの、神と共に歩む教会の祈りです。主の御手を信頼して、祈り続ける歩みをいたしましょう。