礼拝説教2月14日



「信仰生活の落とし穴」 石丸泰信 牧師
マタイによる福音書6章1ー 4節

 信仰生活とは「隠れたことを見ておられる父」の御前にある生活です。その「落とし穴」とは、天の父である神の眼差しを忘れた生活です。神の眼差しを見失うとき、人は、人の目ばかりを気にするようになります。人が見ていなければ何だってする。すべて人が基準です。そして、何のためにそれをしているのか分からなくなります。相手のためか、自分のためか、人の自分への評価のためか。自分を見失ってしまいます。主イエスは、今日、そうなるな、と仰るのです。 
 山上の説教を読み進めていますが、5章では「律法」に現された神の義=神の良しとされることを一つひとつ取り上げていました。6章は、その神の義の実践です。実際に律法に従って生きてみるとき、気をつけなければならない落とし穴が最初に描かれています。当時、施し、祈り、断食が、信仰生活の三本柱として大切にされていました。今日は施しにおける落とし穴です。
 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」 
 「施しをするときには」と言われています。施しをしなさいとは言いません。施しをすることが前提です。「施し」は神への捧げものだからです。当時、神に捧げたものを必要な人たちで分かち合うことがありました。その逆も然りです。神に捧げようとしていたものを神に捧げる思いで必要な人に渡すのです。そうであれば、手渡した相手から感謝されなくても構いません。その人に渡しているのではなく神に捧げているのですから、相手から報いを受けなくて当然です。わたしたちは礼拝で献金をするとき、人の目は気になりません。それと同じです。 
 しかし、主は、その当然のことをするときに気をつけなさいと言われたのです。施しの際は「偽善者たち」のようになってはいけない、と。「偽善者」には「俳優」という意味合いがあります。俳優という仕事は、見る人がいて初めて成立します。だから「ラッパを吹き鳴らして」人に気がついてもらうのです。この誘惑にはなかなか勝てないと思います。自分の働きが認められなくても良い。しかし、この人にだけは分かって欲しいという気持ちがあります。何か報酬を得たいわけでも賞賛を受けたいわけではない。ただ一言欲しいだけなのに。そういう素朴な思いがわたしたちにはあります。 
 わたしもそうです。勤務校の帰り道、交差点で車が動かなくなったために困っている人を見かけたときのことです。わたしは運転していた車を脇に停め、その人の車を後ろから押してロード・サービスを安全に待てる場所まで移動しました。丁寧にお礼を言われ、助けた理由を聞かれました。ここで教会の牧師だと名乗れば、教会が有名になると思いました。しかし、同時に、それでは隣人愛ではなく、宣伝になってしまうと思い、名乗るのをやめました。そこまでは良かった。勤務校の授業で上記の話をし、「だから、知らせなかったんだよ」と生徒に話すと「じゃあ、先生、もう神さまからの報いはもらえませんね」と言われてしまいました。聖書は「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言います。しかし、わたし右の手をしたことを左の手に知らせなかったんだよ、と生徒たちに知らせていたのです。どうしてラッパを吹きたくなるのか。それは神の義ではなく自分の義を求めているからだと思います。神の義とは神が正しいとされることです。つまり神が基準。他方、自分の義とは自分にとっての正しさ。自分の善の基準。だから人に知らせたくなり、知らせて初めて満足するのだと思います。けれども、自分の義を見たし、満足することは実は信仰生活とは何も関係がありません。神が良しとされることを行って生きてみる。それが信仰生活だからです。 
 それはどういう生活か。ある友人が「息子がハンカチをビショビショにして帰ってきた」と話してくれたことがあります。3歳の男の子のことです。隣で手を洗っていた友だちがズボンで手を拭いていたのでハンカチを貸したのだと言うのです。これがどうして話題になることなのか。その男の子は保育園では用意されたタオルで手を拭きますが、外出先でタオルがなかったとき、ズボンで拭こうとしたそうです。すると父親は「これ、使いなさい」とハンカチを渡した。そのことを覚えていて、男の子は友だちに自分のハンカチを差し出したそうです。すごいなと思いましたが、本人は偉いことをしたとは思っていないそうです。もしも自分の義の為の行いであれば、得意になって母親に話したと思います。けれども、お父さんがやっていたことを自分も行った。それだけ。だから自分の義ではないのです。それではなぜしたのか。それはお父さんと自分だけの関係です。きっと父親のことを思い出して、そうするのが良いと思ったのでしょう。信仰生活もそうです。天の父を思い出して良いと思うことをする。それが健やかな信仰生活です。