礼拝説教2月7日



「天の父の子となるために」 石丸泰信 牧師
マタイによる福音書5章43ー48節

 主イエスの山上の説教を聞いて、あるいは読んだ後、求められていることは一体何か。それは反省をすることではなく、信じるということです。「信じる」とは第一に「信頼」です。信頼するためには、相手をよく知らなければ出来ません。主イエス=神は、一体どのような方で、どのような眼差しで私たちをご覧になっているか。律法の一つひとつの言葉には神の思いが現れています。そして「信頼」できた後には、その言葉を「真実」として受け止めます。 
 今日の主の説教は、多くの人々が真実だと思っていた言葉を取り上げるところから始まります。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」。この言葉を聞いて驚く人はいないと思います。敵とは自分を味方しない人、邪魔をしてくる人です。自分の味方になってくれる隣人のことは愛する。しかし、邪魔をしてくる人のことを憎く思うことは仕方ない。この考え方に違和感を持つ人は少ないと思います。けれども、主は言葉を続けます。「しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。 
 私たちはいつも「だから」という世界に生きています。隣人、だから、愛する。邪魔をする人、だから、憎む。主イエスの命じられた「敵を愛しなさい」ということは「だから」ではできません。「にもかかわらず」という世界に触れないことには出来ないのです。「だから」愛するという世界には合理性があります。愛するに値する価値があるから愛します。けれども、敵に対しては、そのような価値を全く持っていません。それ「にもかかわらず」愛する。このことは「赦し」なしには出来ないことです。 
 「赦し」とは、そもそも合理的なものではありません。もしも「○○だから赦す」というのであれば、「だから」の世界。価値があると認めているわけです。取り立てて赦すという言葉を使わなくても良いでしょう。本当の赦しとは「にもかかわらず」の世界です。なぜ赦すの?と聞かれても合理的なないのです。にもかかわらず、どうして赦せるのか。その理由を聖書はこう言います。「あなたがたの天の父の子となるためである」。理由はそれだけです。もちろん、これは天の父の子=神の子となる条件ではありません。敵を愛し、その人のために祈るとき、天の父の、子に対する喜びがあり、「ああ、わが子よ」という誇らしい気持ちがあるということです。なぜ誇りに思うのか。天の父が本質的に、そういう方だからです。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。太陽も雨も人を選り好みしません。なぜなら、天の父の思いが現れているからです。天の父は相手が正しいとか正しくないとか、好きとか嫌いとかの区別をしない方です。だからこそ、その子には、その思いを知って同じように見つめる眼差しを持って欲しいと願っておられるわけです。もちろん、天の父は太陽や雨のように無感情・非人格的な方ではありません。太陽も雨も譬えの域を出ません。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました(ローマ5:7-8)」という言葉の通りです。天の父は「神だから敵を愛して当たり前」とは言えません。痛みなしに、キリストの死なしに、不信頼で敵対していた私たちを愛し、神の子と呼んでくださることはできなかったのです。 
 主は「自分を愛してくれる人を愛したところで、・・・自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」と言われます。味方だけを愛し、好きな人にだけ挨拶をする。それは優れたことか?悪人だって同じようにするだろう。しかし、あなたは一体誰か?と問うているわけです。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と主は言います。天の父の愛は完全です。相手が誰であろうと、どうしようと愛する方です。皆が皆、天の父の子だからです。私たちは相手次第でコロコロ変わります。人の喜ぶ姿を見て、その人が好きであれば共に喜び、嫌いであれば、妬ましく思う。なぜか。「だから」の世界にこそ真実があると思ってしまっているからです。しかし、それは神を知らない人と何ら変わらない態度です。その私たちに向かって、主は「あなたがたも完全な者となりなさい」と言われます。これまで「だから」の世界に生きてきたかもしれません。けれども「にもかかわらず」の世界にこそ、真実があること、信じてみたいと思います。信じて、この主の言葉に留まりましょう。それは必ず私たちを救います。