4月19日 向河原教会の信徒への手紙②

向河原教会のみなさまへ


 神の御心によってキリスト・イエスの伝道師とされた小松から、向河原教会に連なる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 礼拝が休止になってから1週間が経ちました。どのような1週間を過ごしてこられたでしょうか。日曜日に教会に行かなかったことで、曜日感覚がずれてしまったように思っている方がおられるかもしれません。礼拝から遠のいてしまうことを寂しく思っておられる方もあるでしょう。礼拝は生活に欠かせないもので不要不急には当てはまらないのに、なぜ休止にしなければならないのかと思う方もあるでしょう。だからこそ、多くの教会では礼拝の中継を行っています。私もそうした他の教会の礼拝のネット配信を見るひとりです。けれども、イースターの朝、主日礼拝の時には見ませんでした。礼拝休止のお知らせを思い当たる方全てに案内を送りましたが、届いていない方や、初めて教会を訪れる方がいるかもしれないと、一人車で向河原教会へと向かいました。その日はいつも教会学校に来ている、近所に住む姉妹が、礼拝はやっていないけれども、遊びに来てくれました。イースターの折り紙を一緒に作り、外の掲示板にそれを飾り、少し遊んでから帰りました。家では夕食の前に、娘が聖書の本を読んでくれました。そのようにして、礼拝の日である日曜日を過ごしました。お一人お一人の主の日の迎え方があったと思います。石丸先生からの手紙を読みながら祈られた方もあるでしょう。礼拝をするのだから、どこの教会でなくてはいけないということはありませんので、他の教会の中継を通して礼拝しても良いと思います。普段教会にはいかない家族と過ごす貴重な日曜日となった方、家族の手前、ネット中継は見ることができない方、あるいは、思いがけず家族と礼拝中継を見ることができた方もあるかもしれません。正解はありません。ただ、ネット配信の礼拝による御言葉は私の生活に力を与え、慰めを与えてくれますが、礼拝とは大きく違うと感じています。向河原教会に集うお一人お一人の顔を思い浮かべて祈る礼拝が、主が私に与えてくださった教会の礼拝です。再開の時を一緒に待ちたいと思います。

 私の住む亀有の近所の住区センターで、事務職員の方がコロナウィルスに感染しました。子どもとの接触はほとんど無いと考えられていますが、いよいよ身近に、知っている施設で、また関係のあった方が、近所のあの人が、感染したという話が聞こえてくる段階に来たのだと思いました。恐れを増そうとしてこのようなことを書いているのではありません。今、私たちの教会はとるべき最善の方法を選んでいるのだと思います。役員会で連絡を取り合い、示された方法です。もし、私の夫の職場で同僚に感染が確認されて、家庭内という距離の近い私がその感染を知らされる前に教会に来ていたら事態は一変していたでしょう。

 今私たちにできる最善は、礼拝を続けるために教会に来ることではありません。今までに無い事態に驚きと戸惑いがあっても、命を守るために逃れることが必要な時があります。「生きること」のために、逃げること、立ち止まることがあって構わないのです。ヤコブ(創27:41−)やモーセ(出2:11)が逃亡し、また主イエスの十字架を見た弟子たちも逃げ出しています。けれども、逃亡して

いるヤコブは、夢の中で神に出会い、神の言葉を聞きます。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創28:15)。イースター礼拝の延期になった私たちを待ち受けているのは復活の主です。主はガリラヤで待っておられる。私たちがそれぞれの場所にとどまっていても、主はいつも先にガリラヤである教会で待っていて下さいます。

 主イエスの十字架によって母マリアは心をズタズタに引き裂かれた思いであったことでしょう。復活の朝、亡くなった息子の遺体すらも失った思いでいたことでしょう。十字架の処刑は悲惨で、全地が闇に覆われた出来事です。その悲しみは明けることのないようなものであったはずです。けれども、それが終わりではありませんでした。新しい命の始まりでした。

 今日の主の日は使徒言行録1章3—11節が読まれる予定でした。教会の暦の主イエスの昇天日に読まれる箇所です。聖書には主イエスが手を上げたまま、祝福をしながら天に上げられたことが記されています(ルカ24:50、使徒1:9-11)。その手が下げられることはありません。神の祝福は取り去られることはありません。私たちは礼拝の度にそのことを思い起こすように、礼拝の最後は祝福を受けて送り出されます。どうか、向河原教会のみなさま、主の祝福を携えてお過ごしください。主の日の礼拝を待ち望む私たちは、信仰者です。ある人はこのように言っています。「信仰はこの状況を変えることはできない。けれども信仰は、私たちのこの状況の受け止め方を変える。」と。ご自宅から信仰者として祈りましょう。休むことなく働き続けている人々のために。執りなしの祈りを捧げましょう。あなたに与えられている家族のもとで、生活に必要不可欠で出向いたあなたの地域で、神の祝福を携えて歩みましょう。神の国はそうした私たちの間にあります。

 私たちは家にいて、この難が過ぎ去るのを待っています。イースター礼拝の延期は嬉しいことでもありました。再びみなさんと共に礼拝する時をイースター礼拝として、主のご復活を喜び、日曜日の朝に安心して教会に集まりましょう。

○共に祈りましょう。

病の中に苦しんでいる方々、そして医療従事者のために祈りを合わせましょう。
進級・進学した子どもたちを覚えて。
世界中の教会の働きのために。
教会に行くことのできなくなったクリスチャンのために。
○みなさまに詩編23編の御言葉を届けたいと思いました。共に読み、この言葉を覚えて過ごしてまいりましょう。

伝道師 小松美樹
牧 師 石丸泰信