4月12日 向河原教会の信徒への手紙①

神と主イエス・キリストの僕である牧師・石丸が離散している神の民に挨拶いたします。わたしの兄弟・姉妹たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。

今回、イースターカードとして「礼拝の休止」の通知をお渡しすることになりました。驚かれた方がほとんどだと思います。これまで教会では新型コロナ・ウイルス感染拡大防止のためにアルコール消毒や社会的距離の確保など、いくつかの対策を行ってきましたが、これ以上は困難であると判断いたしました。理由は、わたしたちの健康とご家族の安心です。また、教会が地域の感染クラスターにならないようにするための社会的責任もあります。

牧師のみによる礼拝の継続や、ごく少数の奉仕者のみの礼拝、それをウェブ配信することも技術的には可能です。しかし、礼拝を望む会員の全てが、それに与ることができるわけではありません。手段のない方にとっては休止していることと同じです。向河原教会は一つの教会の中でズレを持ちつつ、この時を過ごすよりも共に再開・再会のときを待つことを選びました。いつも教会の掲示板に掲げている「どなたでもどうぞ」という招きができない今、共に礼拝の再開のときを待ちたいと思います。

急な連絡を告げる手紙で申し訳ないと思っています。にもかかわらず、この手紙を出している理由は、次の礼拝がイースター礼拝だということがあります。公共交通機関で来会される方、不安な方はご自宅で祈りのときを持ってください、ごく少数の会員と共に礼拝を捧げ、それを中継しますとの言葉でもってイースター礼拝を捧げたくはありませんでした。気がつけばイースターは終わっていた、今年はイースターがなかったとの思いを持って、この一年を過ごしてほしくはないと思いました。

そこで、次に再会する礼拝を、すこしだけ遅れてやってきたイースター礼拝として捧げたいと思っています。葉書には5月17日にと書きました。これは、もしかすると短縮するかもしれませんし、なお待たないといけないかもしれません。分かりません。しかし、共に待ちたいと思います。

本当は、これで良いのだろうか、という思いが何度も頭をよぎります。周りを見ると正解が分かるどころか、余計に分からなくなります。そういう中、ある牧師に「ゲツセマネでイエスさまが祈る姿があるじゃない。なんか苦渋の決断ってこういうことなんだなと思ったよ」という言葉をもらいました。この牧師も、さまざまな決断をしながら、この時を過ごしている人です。このとき、主イエスが伝道をされた3年間、どのような思いで過ごされたのだろうかと思いました。ゲツセマネの祈りは、この時だけではなく、ずっと抱えていた祈りなのだと思います。悩み苦しむ主イエスの姿はわたしの慰めです。誰一人として先のこと、全てを理解して安心して歩んでいる人はいません。それは主イエスも同様です。呻きを共にしてくださいました。神との出会いというのは、心の中にある悩みや葛藤がない清々しい気持ちの中で起こるのではなく、自分が呻くとき、そこに主が共にうめいてくださっていることに気がついてゆく中でこそ、出会うのかもしれません。

冒頭の挨拶は「ヤコブの手紙」の一節です。試練に出会い、信仰が試されることで忍耐が生じると言います。「ヘブライ人への手紙」も言います。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。・・・あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます」(12:5-)。二人とも目の前にある困難が神の御手の内にあることに信頼し、不安や困難を試練、鍛錬と受け止めています。自分は被害者だと言い張り、鍛錬を鍛錬として認めないこと、それが主の鍛錬を軽んじることです。鍛錬は厳しいものです。しかし、父なる神の、子であるわたしたちに対する信頼を表していることでもあります。それに耐えられるという信頼がなければ、鍛錬をされることもありません。聖書の人々は、たびたび、待つという経験をしました。第一子の誕生を25年間待ち、苦しみの時が終わるのを400年。約束の地を見るのを40年。帰ることを70年待ちました。彼らの希望は、この大変さは神から来ているということでした。そうならば、必ず引き上げていただける。この信頼によって彼らは歴史を耐え抜いたのです。わたしたちも待ちたいと思います。信頼すること無しに待つことはできません。見上げること無しに待つことはできません。待つことは信頼であり、待つことは礼拝です。

・世界中のそれぞれの地域で、多くの方が事態収束のために祈り、働いています。その一人ひとりに思いをはせながら、わたしたちも、また歩んでいきましょう。 ・今、自分の命のため、人の命を守るために行動が求められています。それは隣人を自分のように愛することです。わたしたちの得意分野です。ある人は「今は一人ひとりがヒーローとなって誰かを護らないといけない」と言います。与えられている健康を尊び、優しい気持ちになって一つひとつのことを考えていきましょう。

・罹患された人たちが癒やされるように、不安と共に回復を待つ家族が支えられるように、家族を失った方が慰められるように祈りましょう。

・自分が罹患するかもしれないという不安の中で、しかし、覚悟をもって治療に当たる医療従事者の姿を覚えましょう。仕事で毎日、家を出ないといけない方がたくさんいることを覚えましょう。送り出す家族がいることを覚えましょう。家族と離れて暮らし、もしかしたら、もう2度と会えないかもしれないという悲しみの中にある方を覚えましょう。

・このことが収束へと向かうようにするために休むことができない研究者たち、為政者たちを覚えましょう。この事態にあっても、今を支えるために休むことのできない多くの方を覚えましょう。休まざるを得なくなり、不安の中にいる多くの方を覚えましょう。

・主の日、教会に行くことと礼拝に出席することが互いに結びついていて、それを切り離すことなんて考えてもいなかった多くの方が、教会に行けず、今、落ち込みながら過ごしている全世界のキリスト者を覚えましょう。

・それぞれの家であなたのことを思い、祈っているものがあることを覚えましょう。そして、誰よりも神が忍耐しておられることを覚えましょう。 ・全てのキリスト者が御言葉に根ざし、賢く振る舞うことができるように祈りましょう。

牧 師 石丸泰信
伝道師 小松美樹