4月26日 向河原教会の信徒への手紙③

 神の御心によって召されてキリスト・イエスのものとなった牧師・石丸から、向河原にある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 日曜日の朝、誰もいない礼拝堂の中で過ごしました。普段の10時半からの一時間は、あっという間に感じる一時間ですが、ずいぶん、ゆっくりとした時間をなんとも形容しがたい思いで過ごしました。そのときに改めて思いました。教会は、やはり建物ではなく、集ってくるわたしたちが教会なのだな、と。

 今週は多くの方の言葉と出会う一週間でもありました。手紙をもらい、その中に「イースターの朝は、朝5時に目覚め、聖書を読みました。なんとも言えない時間を過ごしました」という言葉があり、励まされました。自分だけではない。皆、そういう思いの中で同じ時間を過ごしているのだ。一緒に待っているのだ、と。

 礼拝休止の件は、未だ、本当に、これで良かったのだろうか、と頭をよぎってしまいます。他の教会のウェブサイトを見ていると、同じように休止している教会の他、礼拝を続けている教会、ウェブ配信をしている教会もあり、そんなことばかり考えてしまいます。そういう中、また言葉に励まされました。わたしの勤務校の吹奏楽部の顧問の言葉です。ある地域の吹奏楽連盟が今夏の吹奏楽コンクールを中止すると発表したそうです。これに対し、賛否両論飛び交っているが、わたしは素晴らしいと思うと、その顧問は言います。連盟の方々は、大きな勇気を振り絞って反対派からの非難役を自ら買って出られたのだと。


もし連盟側が「コンクールは開催するが、参加は各学校の判断に任せる」と表明したら・・・連盟は非難されない代わりに、今度は各学校の顧問の先生方が非難の対象となってしまいます。

もし顧問の先生が「コンクールは出場するが、参加は各家庭の判断に任せる」と表明したら・・・顧問の先生は非難されない代わりに、今度は各家庭の保護者が非難の対象となってしまいます。


もし各家庭の保護者が「私はどちらでもいいから、あなたの判断に任せる」と表明したら・・・保護者は非難されない代わりに、最後はその部員が非難の対象となってしまいます。


なぜなら、吹奏楽コンクールは個人競技ではないから。そして、吹奏楽コンクールに出るからには、誰もが金賞を目指したいからです。「自分が感染したらと思うと怖い。でも、自分が担当している楽器は自分しかいない・・・」と、部員に悩ませるべきではありません。「吹奏楽コンクールには絶対出させてあげたい!でも、もしこの子が感染したら・・・」と、保護者に悩ませるべきではありません。「今年こそ金賞を取らせてあげたい!でも、もし活動の中で集団感染が起きてしまったら・・・」と、顧問を悩ませるべきではないのです。
(https://www.facebook.com/ygbb2015)

これこそ、「責任を背負う」ことだという言葉で締めくくられています。

 この言葉に出会ったとき、うちの長老の方々の、その決断は大したものだなぁと思いました。来会者を悩ませない、奉仕者を悩ませない。急いで決めなければならなかったあの時の長老一人ひとりの思いを言葉にしてもらった気がしました。もうあれこれ考えるのはやめて、しっかりと一緒に待とうと思いました。

 不思議な出会いもありました。ある日の午後、名も知らない方からの電話がありました(よくあることです)。神は、今のこの状況をどう思っているのでしょうか、という問い合わせでした。わたしが答える前に、その方は「やっぱり怒っておられるのでしょうか、人間への罰でしょうか」と言われます。ああ、そんなこと考えたことなかったなーと考えていると、続けて言われました「聖書の中にも、神は、最後に地球を爆破させるって書かれているじゃないですか」。わたしは慌てて、いやいや、そんなことは書いてないですよ、と打ち消しました。「聖書には、暴動や地震、疫病。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりではない。おびえてはならないと書かれています。神が、今どう思われているのか、わたしには分かりません。でも、どんな方かは知っています。神は最悪な状況からも、最善を造り出すことができる方です。そのために、わたしたちを用いようとされる方です」と。けれども、あまり満足されなかったのか、「それよりも、今の政治家たちは・・・ホントにもう!」と話が進み、尽きそうになかったので丁寧に挨拶をして電話を終わりにしてもらいました(これもよくあることです)。

 変な電話だったなと思いました。そう、変な電話なのです。思い返してみれば、この電話がなければ、わたしは、今のこの状況は一体何なのか、神は今の状況をどう見ておられるか、なんて問うこともなかったわけです。そういう意味で、この電話の方は天使です。

 なぜ、このようなことが起こるのか。この苦難は何か。神に、そう問うた人がいます。ヨブです。彼は突然、すべてを奪われました。家畜、従者、家族がいなくなります。全身に悪性の腫れ物ができて、姿が分からなくなるほど膨れ上がります。そのとき、ヨブは神に問うのです。何の悪事もしていないのに、この災難は何か。対して、神が返した言葉は厳しいものでした。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸(計画)を暗くするとは。男(勇者)らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。」(ヨブ記38章)

 神はヨブの問いには一切答えません。むしろ、神は問いに問いを返しています。腰に帯を締めて、わたしに答えてみよ、と神は繰り返します。ある人は、これを「問いの逆転」だと言います。「この悲惨な状況は一体何か」と問うていたヨブは、ハッと気がつくわけです。問われている。この悲惨な状況の中で、どう生きるか自分は問われているのだ、と。

 わたしたちも問います。神よ、この今の状況はいったい何なのか。しかし、神は言われるわけです。腰に帯を締めて、しっかり立ってわたしに答えてみよ。この悲惨な状況の中で、あなたはどう生きるか。

 ある人は、楽観主義とポジティブ主義は違うと言います。楽観主義は、観客として試合を見ながら「このまま行けば、自分の応援しているチームは勝ちそうだな」と考える。一方、ポジティブ主義は自らが試合に参加して「自分がうまくプレイできれば、この試合に勝てるぞ」と考える。そこに自分がいるのか、いないのかは大きな違いです。先の手紙の中に同封したイースターの「折り紙」のことで、便りを頂きました。嬉しかったということ、そして、きっと小さい子が作ったのでしょう。あんなに小さい子が、自分にできることを探してやってくれている。わたしも、自分にできることをしなくちゃ、と。

 大変な状況の中にあると一日を過ごすだけで精一杯になってしまいます。しかし、神の造られた良き世界の一員として、どう生きるか、自分には何ができるか、思い巡らしたいと思います。神が、今、これからなさろうとすることのために、神はわたしたちを用いようとされます。

牧 師 石丸泰信
伝道師 小松美樹